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この記事の目次
天正9年前田利家能登を与えられ城持大名へ
天正9年(1581年)利家は信長より能登一国23万石を与えられ七尾城主となります、ここでようやく国持大名へと出世を遂げたわけです。しかし、翌年、利家は難攻不落ながら港湾部の町から離れた七尾城を経済的な理由から廃棄、港を臨む小山を縄張りして小丸山城を築城しました。
この辺り、戦ばかりではなく、ソロバン勘定にも長けた利家の性格が出ています。
命運を分けた賤ヶ岳の戦い
天正10年6月、織田信長が本能寺で明智光秀に討たれます。その頃、利家は柴田勝家と共に上杉景勝が籠城する越中魚津城を攻略中で動けず、山崎の合戦で明智光秀を討った同僚の羽柴秀吉に大きく差をつけられる事になります。
織田信長亡き後の事実上の天下人を決定する清須会議で羽柴秀吉と柴田勝家が対立すると、利家は勝家の与力という立場や若い頃の恩義もあり勝家に付きます。
しかし、心情的には秀吉に与していた利家は、天正11年4月の賤ヶ岳の戦いでは、5000の兵を率いて柴田軍に合力しますが、合戦の只中で突如退却を開始し、羽柴秀吉の軍勢に決定的な勝利をもたらします。
その後、利家は越前府中城に籠城しますが、そこに秀吉に敗北して北ノ庄城へ逃れる途中の柴田勝家が立ち寄りこれまでの労をねぎらい湯漬けを所望したというような逸話が賤ヶ岳合戦記にあるようです。
府中城には秀吉の使者の堀秀政が入り降伏を勧告。これに従い利家は降伏し、そのまま北ノ庄攻めの戦法になります。どうも、出来過ぎているので賤ケ岳での無断退却と府中籠城は、あらかじめ秀吉と打ち合わせた芝居かも知れません。
かくして、秀吉が勝家を破ると、利家は能登の本領を安堵され同時に、佐久間盛政の旧領地、加賀国の二郡を与えられ本拠地を能登の小丸城から加賀の金沢城に遷します。
同僚佐々成政を打ち破り北陸警固の地位へ
前田利家が上手く羽柴秀吉に乗り換えたのに対し、若い頃から黒母衣衆として利家と競っていた佐々成政は勝家に付いて苦汁をなめていました。
天正12年、今度は羽柴秀吉と不仲になった織田信雄が徳川家康と組んで小牧・長久手の戦いを起こします。当初成政は秀吉側に与する様子を見せつつも結局織田信雄サイドに付きます。かくして、佐々成政は前田利家の領地である加賀・能登国に攻め込み、末森城を15000で包囲、城兵は1500人で城代が戦死するなど窮地に陥りました。
この知らせを聞いた利家は金沢から2500人の兵を引き連れて急いで戻り、高松村の桜井三郎左衛門の案内により成政軍の守りが手薄な海岸路を通過し、末森城を包囲する成政軍の背後から殺到し佐々成政を撃破します。
以後、戦線が膠着状態になると、利家は北陸方面を守るという名目を利用して一切動きませんでした。翌年からは、利家は、調略で上杉景勝を動かして成政の領地の越中国境まで進出させたり、成政サイドの国衆を寝返らせたり越中に兵を出したりしています。
天正12年8月、秀吉は織田信雄や徳川家康と和睦、孤立無援となった成政の富山城は10万の秀吉軍に包囲され、成政も降伏しました。
これにより秀吉は、利家の嫡子の前田利長に越中国4郡のうちの砺波・射水・婦負を加増、これで前田一族は76万石の大大名へ成長します。さらに、この頃、越前国の国主、丹羽長秀が病没し丹羽家は国替えになり、利家はかつての柴田勝家のような北陸道警固職に就任しました。
小田原攻めで活躍
北陸警固の地位についた利家は秀吉の代理として、北陸の大名の取次に働き、蒲生騒動では徳川家康に代わり奔走し秀吉から処分取り消しを引き出します。
九州征伐では8千の兵で畿内を守備、秀吉が関白に任官して豊臣姓を賜ると、天正14年には利家に羽柴氏を与えて名乗らせ、筑前守左近衛権少将へと任官、天正16年には豊臣姓も賜るなど譜代の家臣がいない秀吉に取り身内のような扱いを受けて、次々と引き立てられていきます。
利家もその期待に応えるように小田原征伐では、北国勢の総指揮を執り、上杉景勝、真田昌幸と上野国に入って、北条氏の北端の要所、松井田城を攻略。
以後も破竹の勢いで城を落として武蔵国に入り、多大な犠牲を払いつつ鉢形城や八王子城を落としていきます。天正18年7月5日に北条氏が降伏した後も、利家は残り伊達政宗や南部信直との外交の取次をしつつ、奥羽の鎮圧に努めました。
朝鮮出兵ではあわや渡海させられる所に・・
日本国内を統一した秀吉は、ありあまる国内のエネルギーを中国大陸に向け、その手始めとして天正19年(1591年)朝鮮出兵の命令を出し前線基地、名護屋城の築城が始まります。
文禄元年(1592年)3月、前田利家は諸将に先んじて京を出発します。当初秀吉は自ら渡海する意思を持っていましたが、利家と家康が熱心に諫めたので取りやめました。
名護屋城まで来て督戦する秀吉ですが、母、大政所危篤の報を受けて、急いで京都に戻ります。そこから3カ月、名護屋城で諸将を指揮したのは利家と家康でした。さらに、思わしくない戦線に対し利家にも出陣命令が下り、実際に準備と陣立てが行われますが、間もなく明との間で講和の気運が起こり渡海は沙汰やみになります。
危ない所でしたね、すでに50を過ぎている利家が渡海したら、手柄うんぬんの前に日本に戻ってこれたかどうか・・
文禄3年(1594年)1月5日、利家は上杉景勝、毛利輝元と同日に従三位に叙位を受け、さらに2人に先立ち、権中納言に任じられます。文禄4年には、越中に残る荒川郡が利長に加増。重臣の青山吉次が、上杉家の越中衆から天神城や宮崎城を受け取り、前田家の版図は加賀、能登、越中にまたがり83万石にまで膨れあがります。
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