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この記事の目次
五大老と秀頼の傅役を仰せつかる
慶長3年(1598年)になると、秀吉に明らかに老衰の兆候が見えだします。しかし、これは利家も同じで4月20日に嫡子の利長に家督を譲り隠居、湯治の為に草津に赴きます。しかし、隠居料として15000石を受けたものの実質隠居は許されず、草津より戻ると五大老・五奉行の制度を定めた秀吉により家康と同格の大老上首の地位を与えられました。
これは、もう死が近い秀吉が、家康から秀頼を守ってくれという利家へのメッセージでしょう。そして8月18日、秀吉は秀頼の将来を案じつつ62歳で亡くなります。
これで休めなくなった利家は、慶長4年の元旦、病を推して幼い秀頼の傅役として秀頼を抱いて、諸大名の前に立ちました。かくして、利家は秀頼を守る大坂城の事実上の主となります。
家康の台頭を危惧しつつ病死
しかし、大阪城で忠義を尽くす利家とは対照的に伏見城の家康は、すぐに伊達政宗、蜂須賀家政、福島正則と無断で婚姻政策を勧めます。これに対し利家は猛反発し、諸大名が家康・利家の両屋敷に集結する騒ぎになります。
前田利家は武断派にも文知派にも人望があり、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家の三大老、五奉行の石田三成、武断派の細川忠興、浅野幸長、加藤清正、加藤嘉明が味方し、一触即発になりますが、結局、2月2日に利家を含む四大老、五奉行の9人と家康が誓紙を交換し、さらに利家が家康の下を訪問しました。
家康は、今は利家と対立するのは不利と悟り、向島へ退去する事で和解しました。ところが、この直後、利家の病状が悪化、家康が逆に病気見舞いに訪れる事になりますが、結局、回復せずに大坂の自邸で病死しました。前田利家の死去は大きく、多くの大名は人望と実力でトップに立った徳川家康に靡いていき、豊臣の天下は急速に崩壊していく事になります。
ケチだった前田利家、その真意は?
前田利家は愛妻のまつにさえ、ケチと呼ばれる程の倹約家で前田家の決済はすべて自らが愛用のソロバンでやる程に経済に明るい人物でした。しかし守銭奴ではなく、北条家の滅亡後に、金に困り家臣を養えない各地の大名家に大金を貸して救っています。
しかも、遺言では、こちらから借金の催促はしないように、返せないやつの借金は無かった事にしてやれと温情を掛ける言葉を残しています。どうも、それもこれも、信長の茶坊主を斬り、経済的な困窮を味わった教訓であるようで、金があれば他人も世の聞こえも恐ろしくはないが、貧窮すると世間は恐ろしいものだと常々口にしていたそうです。
現在でも金がないのは首がないのと同じと言いますが、貧しさが産み出す底知れない恐怖を利家は浪人生活で味わい、もう生涯貧乏はするまいと決意し経済感覚を磨いたのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
歴史上には、勇猛な武将というのは沢山いますし智謀湧くが如くの知将もいます。しかし、この2つがバランスよく一人の人間の中に存在しているという武将は少ないです。
前田利家は、この2つが上手くバランスし、さらに浪人時代の苦労もあり人情の機微も分る名将になったような気がします。
特に、短気を抑えられずに拾阿弥を斬って、信長に見捨てられ貧困生活を送ったのは利家に、最大限自重して最善を選ぶという教訓を与えてくれたように思います。もし、ずっと順風満帆だったら佐々成政のように、ここ一番で面子やプライドに拘り、全ての苦労が水の泡になったかも知れませんね。
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