三国志では最終的に晋の時代がやって来てしまいますが、それ以前の三国志の状態である魏、呉、蜀の三国で考えれば筆者は間違いなく魏の勝利だと思います。蜀に止めを刺したのは間違いなく魏ですからね。
さてこの蜀の敗北、滅亡については一体誰が戦犯であるのかは皆さん色々な意見があるでしょう。今回は戦犯の定義から、蜀滅亡について見ていきたいと思います。
この記事の目次
戦犯の定義
戦犯という言葉には色々な意味がありますが、ここでいう戦犯とは「原因である人物」です。これは状況によって判断を下した人物、戦を指揮した人物、致命的な失敗を犯した人物など、状況によって様々な人間が選ばれます。
しかし今回の戦犯とは「蜀が滅亡したのはこいつが原因だ!」という人物ですね。では筆者の考える蜀が滅亡した原因ではないかと思われる人物たちを説明していきましょう。
全ての始まりである樊城:関羽
まず挙げたいのが、関羽。関羽は劉備の旗揚げ時から付き従った人物であり、武将として名高い劉備の義弟。
しかし呉と足並みを揃えて魏に当たらなければならないのに関係を悪化させたり、それによって樊城で敗北してしまったり、更には劉備が復讐に燃えて夷陵の戦いが始まってしまったりするなど、蜀滅亡の開幕とも言える状況を作り出してしまった人物の一人です。思う所もありますが関羽の名前はどうしても挙げてしまいますね。
北伐によって国を疲弊させた?姜維
良く蜀滅亡の引き金を引いたとも言われてしまう姜維。諸葛亮の行った北伐を引き継いで繰り返してしまい、国の疲弊を招いたと言われています。しかしその一方で姜維の北伐で蜀はそこまで疲弊しなかったとも言われていますね。
ですが姜維が国を離れてしまったことで宦官たちが内政でやりたい放題になってしまったことを考えると、北伐ではなくまずは足場を固めるべきだったのでは?とも思います。同情する面もありますが、やはり北伐のみにこだわってしまったのが姜維の失敗と言えるでしょう。
内部腐敗をもたらした宦官:黄皓
蜀滅亡の大きな原因と言える存在、黄皓。彼が私腹を肥やし、内政を良いように動かしてしまったのは否定できず、それ故に蜀の滅亡を招いたことは明らかであります。しかし魏と内通していたなど、三国志演義での創作であることを正史とごっちゃにしてはいけません。
黄晧自体が良い人間でなかったことは明白ですが、全てが黄晧のせいだというのは言い過ぎな所があります。彼の存在が蜀の滅亡を招いた要因の一つではあると思いますが、彼だけのせいではないことも念頭に置いておくべきでしょう。
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