曹丕より陰険?兄を殺して即位した北宋の第2代皇帝太宗の事件を解説


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第2代皇帝太宗の事件(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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太祖の急死と不思議な書物『湘山野録』

憤死する麋竺(モブ)

 

建隆(けんりゅう)元年(960年)に即位した太祖は16年後の開宝(かいほう)9年(976年)に、この世を去りました。まさにそれは唐突な死でした。太祖の死に関して奇怪な話が伝えられています。最初に伝えたのは文瑩(もんえい)という僧侶が執筆した『湘山野録(しょうざんやろく)』という書物。

 

文瑩はただの僧侶ではなく北宋中期の政界に顔が利いた人物でした。日本史で例えるなら今川家に仕えた雪斎のような人物です。『湘山野録』には以下のような内容が記されていました。

 

開宝9年(976年)に太祖が馬車で洛陽まで行く途中、ある人物に出会いました。彼は太祖の若い時の飲み友達で混沌(こんとん)と言いました。もちろんこの名前は世を欺くための仮の名前です。久しぶりに会ったので太祖は宮中に招いて飲むことにします。

 

しばらくすると太祖は「私の寿命はあとどれくらいだ?」と尋ねました。混沌は「10月20日が晴れていれば、12年延びるでしょう。しかし、晴れていなかった時は覚悟してください」

 



運命の日と太宗の不審な行動

 

混沌の予言を覚えておいた太祖は20日の夜を迎えます。その夜は・・・・・・雪でした。太祖は弟の太宗を呼ぶと一緒に酒を飲みます。なお、この光景を目撃した部下たちの話によると、弟の太宗は時々何かを断っている仕草をしていたという。

 

そして時間が流れて真夜中になると、突然太祖は雪が積もった地面に斧を突き刺した。目撃者によると太宗はいきなり、「頑張れ、頑張れ!」と意味不明なセリフを発したようです。しばらくすると太祖は就寝してしまい間もなく息を引き取り、それから太宗が即位します。実に意味不明な話であり、話の整合性がとれていません。太祖も太宗も何がしたかったのでしょうか?

 

もう1つの太宗即位秘話

同年小録(書物・書類)

 

別の話も伝えられています。司馬光(しばこう)が執筆した『涑水記文(そくすいきぶん)』という書物。司馬光は歴史書『資治通鑑』の著者でも知られています。この書物によると、10月20日に太祖が死亡すると太祖の妻である宋皇后(そうこうごう)はすぐに子の趙徳芳(ちょうとくほう)を呼ぶために宦官の王継恩(おうけいおん)という人物を派遣しました。

 

はっきりした証拠はありませんが、宋皇后は趙徳芳を即位させるつもりだったと推測されています。ちなみに彼女と趙徳芳に親子関係はありませんし、趙徳芳の母も分かりません。おそらく身分の低い人物だったのでしょう。さて、宋皇后の命令を受けて趙徳芳のもとに向かっていた王継恩でしたが、途中で心変わり。なぜなら、趙徳芳は18歳。

 

父親の太祖のように戦場での苦労を知らない、温室育ちの若僧です。まだ中国統一は完成していないのに、そんな奴に政治は任せれません。そこで王継恩は太宗の屋敷に向かいました。

 

太宗の即位と陰湿なイジメ

 

王継恩から話を聞いた太宗は宮中に行きました。てっきり趙徳芳が来ると思っていた宋皇后は、太宗が現れたのでビックリ!それに対して太宗は「皆さんの命は私が保証します」と答えました。安心した宋皇后は太宗に後を託します。太宗が後を継いで北宋第2代皇帝になりました。

 

あとは邪魔な人々の始末です。1人目は太祖の息子である趙徳昭(ちょうとくしょう)です。太平興国4年(979年)に太宗は異民族である契丹を攻めて大苦戦。それどころか太宗は軍中で行方不明という事態になります。部下は緊急事態なので趙徳昭に新しい皇帝になってもらうことにしますが、太宗は無事に帰ってきたのでした。

 

後になって皇帝擁立の件を聞いた太宗は、「俺に黙って何してるの?」と趙徳昭の精神が病むまで攻めます。鬱になった趙徳昭はのどにナイフを突き刺して自殺しました。享年29歳。太祖が死んだ時に皇帝候補に挙がった趙徳芳は太平興国6年(981年)に病死。享年23歳。趙徳昭の死と同時期なので、太宗による暗殺が噂されています。

 

最後は趙延美。太宗の実弟です。弟なので皇位継承権はあります。当然、太宗にとっては目の上のタンコブ!彼は太平興国7年(982年)に謀反の罪で流刑にされて2年後に亡くなりました。こうして太宗を脅かす人物はいなくなり、後は太宗の家系が北宋を切り盛りしていくのでした。

 

宋代史ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

このように不可解な逸話をいくつも残したことから、後世の歴史家は太宗が太祖を暗殺して弟や甥を始末したと言っています。だが、さすがに医学が発達した現代では太祖の死因に関しては冷静な見方もあります。太祖は従来、大酒飲みだったらしいようです。私は太祖の突然死は急性アルコール中毒ではないかと考えています。

 

亡くなる前に太祖がとっていた不可解な行動やいきなり亡くなるのも、それで説明がつきます。読者の皆様はどう思われますか?

 

※参考文献

・荒木敏一「宋太祖酒癖考」(『史林』38-5 1955年)

・竺沙雅章『宋の太祖と太宗 変革期の帝王たち』(清水書院 1975年)

・宮崎市定「宋の太祖被弑説について」(初出1945年 のち『宮崎市定全集10 宋』岩波書店 1992年 所収)

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
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