【西夏】タングート族は塩を巡って北宋と何度も戦争!青白塩問題について解説

2019年4月1日


 

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西夏の旗の兵士

 

西夏(せいか)(1038年~1227年)は現在の中国の甘粛省(かんしゅくしょう
)
寧夏回族自治区(ねいかかいぞくじちく
)
に建国されていた王朝であり、他の名前ではタングート族と呼ばれていました。

 

「宋」の国旗をバックとした兵士

 

北宋(ほくそう)(960年~1127年)の第4代皇帝仁宗(じんそう)の時代には戦争を行うほどの対立関係でした。南宋(なんそう)(1127年~1279年)建国後も対立していますが、北宋ほどの状態ではありません。ところで、タングート族が北宋と争っていたものに「塩」があります。

 

塩は現在はスーパーやコンビニでもお手軽に手に入ります。しかし、昔は国の専売物で簡単に手に入れませんでした。

今回はタングート族必需品の青白塩(せいはくえん)について解説いたします。

 

自称・皇帝
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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宋代の塩について

 

実は歴代の王朝では塩は国家が管理していました。要するに専売物です。北宋も統一時にそれは定めていました。

ただし、国家が売っていた塩の大半は質の悪いものばかりでした。

 

庶民、村人の家

 

しかも値段が、民にとっては法外な額でした。民にとって嬉しかったのは、闇商人の「闇塩」でした。嘘かもしれないですけど彼らの作る塩の方が質が良かったのです。民はそのため、闇商人を匿って塩を買っていました。

 

水滸伝の宋江

 

水滸伝(すいこでん)』の宋江(そうこう)やその仲間は典型的な闇塩商人です。

北宋やその後の歴代の王朝も、この闇商人の取り締まりにはかなり苦労しました。

 

 

 

タングート族の青白塩

タングート族

 

さて、話が逸れたのでタングートの塩の話に行きます。タングート族が作っていた塩は青白塩(せいはくえん)と言います。

青白塩は現在の陝西省(せんせいしょう
)
から寧夏回族自治区(ねいかかいぞくじちく
)
でとれていたものです。

 

タングート族にとって重要な貿易品でした。タングート族の生計は、青白塩で成り立っていたのです。ところが、乱世の五代十国(ごだいじっこく
)
(907年~960年)が終了して北宋が統一すると、塩は北宋の専売物にされました。おかげで、タングート族にとっては経営がやりづらくなりました。

 

太宗

 

また、北宋の第2代皇帝太宗(たいそう)の太平興国7年(982年)にタングート族の酋長の李継筠(りけいいん)が亡くなって、弟の李継捧(りけいほう)が後を継ごうとするも反対が出ました。

 

おかげでタングート族は内紛になりました。

 

■中国を代表する物語「水滸伝」を分かりやすく解説■はじめての水滸伝

 

 

青白塩の輸入禁止

 

その後、李継捧(りけいせん
)
の族弟の李継遷(りけいせん)が北宋に対して反乱を起こしました。李継遷が反乱を起こした時は、北宋と(りょう)(916年~1125年)が戦っている最中です。北宋は遼と戦うも何度も手痛い目にあって追い返されています。

 

北宋は李継遷に官爵を与える懐柔策を試みますが、またすぐに反乱を起こされるので意味の無い戦いが続きました。李継遷に領土を奪われた北宋は、チベット系の西蕃族に李継遷の討伐を依頼しました。

 

三国志のモブ 反乱

 

西蕃族との戦闘により李継遷は命を落としましたが、タングート族の戦いはまだ終わりませんでした。李継遷存命中に北宋が出した作戦は経済封鎖でした。

タングート族の経営は青白塩で成り立っていることは前述した通りです。

 

北宋は青白塩の輸入を完全に禁止しました。おかげで、李継遷たちは困ったので北宋の作戦は成功しました。

しかし、これには難点もありました。

 

困るのは李継遷たちだけではありません。他のタングート族も一緒です。彼らまで一斉に敵に回ったのです。

おかげで、北宋は不利になり一時は経済封鎖が解禁になりました。

 

ところが、それをすれば李継遷が押し返してくるので意味がありません。

ただのイタチごっこです。

 

李徳明の青白塩交渉

 

李継遷の死後、子の李徳明が後を継ぎました。李徳明は、すぐに北宋に和議を申し入れました。

さらに、李徳明が行ったことは戦争からの復興政策でした。李継遷が行った戦争でタングート族はだいぶ傷ついていました。

 

李徳明は青白塩の輸入禁止の撤回を再三に渡り北宋に求めました。

しかし、北宋は「1度無くした信用を取り戻すのは、最初に信用を作るより大変なんだ。」という感じで絶対に認めませんでした。

 

『闇〇ウシジマくん』のセリフと気付いた読者はどれ位いたことやら・・・・・・

   

 

宋代史ライター 晃の独り言

 

今回はタングート族と青白塩問題について解説しました。李徳明の死後、子の李元晃(りげんこう)が父の北宋への従順政策に反対して立ち上がります。

それはまた別の話です。

 

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北宋・南宋

 

 

 

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