広告

江戸城には弱点があった!無血開城するまで難攻不落だった江戸城


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

江戸城

 

江戸時代263年間、徳川幕府の象徴であり続けたのが江戸城です。1868年に明治新政府軍を相手に無血開城するまで難攻不落(なんこうふらく)であり続けた江戸城ですが、その江戸城には弱点があったってご存知ですか?

 

徳川家康

 

今回は、意外な江戸城の弱点と家康(いえやす)が息子達に残した総大将の心得を紹介します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



江戸城の弱点は半蔵門

安土城 織田信長が作らせた城

 

江戸城には大手門(おおてもん)平川門(ひらかわもん)清水門(しみずもん)田安門(たやすもん)半蔵門(はんぞうもん)桜田門(さくらだもん)坂下門(さかしたもん)の7つの門があります。特に警戒厳重なのが大手門で、榊原家(さかきばらけ)阿部家(あべけ)のような10万石以上の譜代大名(ふだいだいみょう)が警備を担当し、鉄砲30挺、弓10張、槍50本、鉄砲隊2組、弓隊2組と総勢100名以上もいました。

火縄銃を撃つ侍(鉄砲)

 

そこを突破しても、大手三之門が待ち構え、甲賀、伊賀、根来(ねごろ)の忍者百人組が交代で待ち構えています。忍者と言っても、古式ゆかしく手裏剣を投げるのではなく鉄砲の名手であり、暗がりからパンパン撃たれ犠牲者続出、本丸に辿り着くには、まず数百人が必要でしょう。

kawauso

 

でも、数百人の人数で大手門の前に出てきたら、今から悪い事しまーすと宣言するようなものです。当たり前に捕縛されます。大手門から攻め込んではいけません。では、江戸城で一番の弱点はどこなのでしょうか?それはズバリ半蔵門なのです。

 

ダムになっている土橋を破壊する

荒れる黄河

 

江戸城の弱点、それは半蔵門です。ここには半蔵濠(はんぞうぼり)という水濠(みずぼり)があるのですが、半蔵門にわたる土橋がダム構造になって水を溜めるようになっているのです。

 

この土橋を攻城サイドが掘り崩した場合、半蔵濠の水は全て抜けてしまい歩いて渡れるようになってしまいます。さらに、この辺りは鉢巻構造といい石垣は僅かしかありません。関東には巨石が少なく家康は、半蔵門や田安門周辺の石垣をケチっているのです。

炎上する城a(モブ)

 

攻城サイドが、そのまま吹き上げを抜けると本丸天守台下の乾濠(いぬいぼり)まで一直線に進めます。乾濠と江戸城本丸は目と鼻の先なので、火矢や大砲を撃ち込めば、あっと言う間に江戸城は炎上してしまい落城です。

 

はじめての戦国時代

 

江戸城落城、将軍はどこに逃げるのか?

武田信玄と徳川家康

 

さて、江戸城が炎上したとしても、それだけで攻城サイドが勝利とはなりません。将軍が生きて脱出してしまえば、江戸城を燃やした所で旗本八万騎の逆襲に遭い全滅してしまうでしょう。

織田信長の首を持って逃げ出す弥助

 

本能寺の変で明智光秀(あけちみつひで)は、信長父子の首を探し出す事が出来ずクーデターの成功の証を立てるのに手間取っていますが、似たようなものです。ところで徳川幕府は、江戸城落城を想定していたのでしょうか?その場合将軍を逃がす手筈(てはず)は考えられていたのでしょうか?実はチャント用意されていたのです。

 

江戸湾には巨大軍船が停泊していた

鉄甲船

 

もしも江戸城が落ちた時に将軍を逃がす方法、それは江戸湾に浮かべた巨大軍船に将軍を乗せて海路で江戸を離れる事でした。実は、この巨大軍船、五代将軍徳川綱吉(とくがわつなよし)の御代まで、ちゃんと江戸湾に浮かんでいたというのですから驚きます。綱吉の時代は幕府開府から100年は過ぎていますから、幕府の用心は息が長いですね。

宋銭 お金と紙幣

 

しかし、この巨大軍船に引導を渡したのも綱吉でした。この太平の世に経費の掛かる軍船は不用として解体してしまったのです。

【次のページに続きます】

 

次のページへ >

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-戦国時代 (日本)
-,