江戸時代263年間、徳川幕府の象徴であり続けたのが江戸城です。1868年に明治新政府軍を相手に無血開城するまで難攻不落であり続けた江戸城ですが、その江戸城には弱点があったってご存知ですか?
今回は、意外な江戸城の弱点と家康が息子達に残した総大将の心得を紹介します。
この記事の目次
江戸城の弱点は半蔵門
江戸城には大手門、平川門、清水門、田安門、半蔵門、桜田門、坂下門の7つの門があります。特に警戒厳重なのが大手門で、榊原家や阿部家のような10万石以上の譜代大名が警備を担当し、鉄砲30挺、弓10張、槍50本、鉄砲隊2組、弓隊2組と総勢100名以上もいました。
そこを突破しても、大手三之門が待ち構え、甲賀、伊賀、根来の忍者百人組が交代で待ち構えています。忍者と言っても、古式ゆかしく手裏剣を投げるのではなく鉄砲の名手であり、暗がりからパンパン撃たれ犠牲者続出、本丸に辿り着くには、まず数百人が必要でしょう。
でも、数百人の人数で大手門の前に出てきたら、今から悪い事しまーすと宣言するようなものです。当たり前に捕縛されます。大手門から攻め込んではいけません。では、江戸城で一番の弱点はどこなのでしょうか?それはズバリ半蔵門なのです。
ダムになっている土橋を破壊する
江戸城の弱点、それは半蔵門です。ここには半蔵濠という水濠があるのですが、半蔵門にわたる土橋がダム構造になって水を溜めるようになっているのです。
この土橋を攻城サイドが掘り崩した場合、半蔵濠の水は全て抜けてしまい歩いて渡れるようになってしまいます。さらに、この辺りは鉢巻構造といい石垣は僅かしかありません。関東には巨石が少なく家康は、半蔵門や田安門周辺の石垣をケチっているのです。
攻城サイドが、そのまま吹き上げを抜けると本丸天守台下の乾濠まで一直線に進めます。乾濠と江戸城本丸は目と鼻の先なので、火矢や大砲を撃ち込めば、あっと言う間に江戸城は炎上してしまい落城です。
江戸城落城、将軍はどこに逃げるのか?
さて、江戸城が炎上したとしても、それだけで攻城サイドが勝利とはなりません。将軍が生きて脱出してしまえば、江戸城を燃やした所で旗本八万騎の逆襲に遭い全滅してしまうでしょう。
本能寺の変で明智光秀は、信長父子の首を探し出す事が出来ずクーデターの成功の証を立てるのに手間取っていますが、似たようなものです。ところで徳川幕府は、江戸城落城を想定していたのでしょうか?その場合将軍を逃がす手筈は考えられていたのでしょうか?実はチャント用意されていたのです。
江戸湾には巨大軍船が停泊していた
もしも江戸城が落ちた時に将軍を逃がす方法、それは江戸湾に浮かべた巨大軍船に将軍を乗せて海路で江戸を離れる事でした。実は、この巨大軍船、五代将軍徳川綱吉の御代まで、ちゃんと江戸湾に浮かんでいたというのですから驚きます。綱吉の時代は幕府開府から100年は過ぎていますから、幕府の用心は息が長いですね。
しかし、この巨大軍船に引導を渡したのも綱吉でした。この太平の世に経費の掛かる軍船は不用として解体してしまったのです。
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