劉備の挙兵当時の部下といえば関羽・張飛は説明不要なレベル。しかし劉備の挙兵当時の部下はもう1人いました。
その名は簡雍。彼に関しては以前、記事にしたことがありましたので覚えている読者の皆様もいるとおもいます。実は彼は、後漢(25年~220年)建国の功臣の子孫に当たります。今回は簡雍と簡雍の先祖について考察します。
前回記事:【衝撃の事実】劉備と同郷の簡雍(かんよう)がいなければ三国志がなかったかも!?
この記事の目次
名字は「簡」ではなく「耿」
簡雍は劉備と同じ幽州啄郡の出身です。正史『三国志』によると彼の本当の名字は「簡」ではなく「耿」です。つまり、耿雍というのが本当の名前でした。「簡」も「耿」も字面が違いますし、中国語の発音でも「簡」は「jian」、「耿」は「geng」と発音するので普通は間違いません。
正史『三国志』に注を付けた裴松之の調査によると、幽州の人が誤って「耿」を「簡」と発音したことから、それが広まり変更になったようです。
後漢建国の功臣 耿純
簡雍の先祖、つまり耿氏はどのような所なのでしょうか?実はとんでもない家だったのです。簡雍の先祖は耿純という人物であり、後漢建国の功臣「雲台二十八将」の1人でした。おじは劉楊と言い、前漢(前202年~後8年)第6第皇帝景帝の子孫です。ちなみに劉備と違って自称ではありません。分家ではありますが簡雍は漢王朝の血を引いていたのです。
耿純は幽州ではなく冀州出身の人物であり代々官僚の家でした。最初は王莽の新(8年~23年)に仕えましたが、新が更始帝率いる緑林軍により滅亡。
耿純は更始帝配下の李軼に仕えました。ところが、この新しい主人は問題のある男です。李軼は更始帝に仕える前は、劉秀(後の後漢初代皇帝光武帝)の部下でしたが、更始帝から高位高官を条件に出されると、平気な顔で劉秀を裏切ります。耿純も部下の統制が全く出来ていない主人にあきれていました。
一族を引き連れて劉秀の部下となる
ある日、劉秀の軍が邯鄲に到着しました。耿純はこの時、劉秀の軍勢の統率がとれていることや初めて会った自分を丁重にもてなしてくれたことから、緑林軍との違いを感じました。
その頃、邯鄲では王郎という人物が皇帝を名乗って挙兵。劉秀は討伐に当たりました。そこで、耿純は一族・賓客など2000人を引き連れて劉秀のもとへと向かいます。こうして耿純は前将軍に任命されて劉秀軍の一員となったのでした。
劉秀を皇帝にする
王郎は耿純の活躍があり討伐に成功しました。その後、劉秀は部下から皇帝になることを勧められました。最初は馬武という武将が勧めましたが、劉秀は首を縦に振りません。その後、何人も同じように勧めてきますが劉秀は断ります。
が不思議なことに耿純が出た瞬間に「分かった」とあっさりと承諾してしまいました。中国で皇帝の任命は八百長。だから、任命を断るのは儀式と思って頂いて結構です。現代で例えるのなら「選挙には出馬しません」と断っている議員候補が、最終的には「皆さんがそこまで頼むのなら出ます」と叫んで出馬するのと一緒です。
ここで重要なのは劉秀が皇帝に即位したというよりも、耿純が劉秀の首を縦に振らせる役割をもらっていたことです。それだけ耿純は劉秀の信頼が厚かったのでしょう。
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