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この記事の目次
反乱平定と地方統治
劉秀が皇帝に即位してから間もなく、耿純はおじの劉楊を討ちました。劉楊は劉秀即位以前、前述した王郎と手を組もうとしたのですが劉秀の説得で投降。しかし劉秀即位後、王の位だけでは満足せずに皇帝の地位を狙うようになりました。そこでデタラメな占いを行って民を惑わします。
劉秀は討伐軍を派遣。だが、劉楊は全く説得には応じず門を開けませんでした。ところが親族である耿純が出てくると心を許して会見してあげました。チャンスと考えた耿純は伏兵を配置して油断していた劉楊を打ち取ります。この反乱後、耿純は地方統治を願い出て各地を統治しながら生涯を終えました。
その後の耿氏一族 耿武
耿純以降の耿氏一族で有名な人物は耿武です。横山光輝氏の『三国志』のマニアである読者の皆様なら知っているキャラクターです。正史『三国志』に注を付けた裴松之が史料として採用した『英雄記』という史料によると、彼は冀州の長官である韓馥に仕えていました。
初平2年(191年)に袁紹は韓馥に冀州を公孫瓚から守備することを口実に、袁紹軍を冀州に入れることを打診してきます。ちなみに韓馥に断る権限はゼロ!なぜなら、韓馥は若い時に袁氏一族に世話になっていたからです。そういう弱みを袁紹に突かれたのでした。
韓馥は袁紹を迎え入れることにしましたが、この時に反対したのが耿武でした。耿武は兵糧・軍勢が袁紹軍より勝っていることを韓馥に伝えましたが、韓馥はそれの忠告を聞き入れません。結局、袁紹は冀州に入ってきて自動的に長官の座を韓馥から交代。耿武は無言で反対の意思を貫いていたことから、袁紹に煙たがられて暗殺されてしまいます。
義勇兵時代の劉備の資金源は?
話を劉備と簡雍に戻します。劉備には研究者の間でも疑問視されていることがあります。それは初期投資の話です。『三国志演義』にも記されていますが黄巾軍討伐のために立ち上がった劉備に中山国の張平世・蘇双という2人の大商人が多額の金を投資してくれています。
昔の記事でも記したことはありますが、当時の劉備は24歳。いくら盧植門下で学んでいたとはいえ、無職!祖父・父は役人をしていましたが下っ端で終了!
つまり社会的地位はゼロです!そんな人にはお金を出す投資家は絶対にいません。いたらボランティア精神にあふれている人物でしょう。研究者の中には劉備が張平世と蘇双を脅迫してお金を奪ったと考える人もいますけど・・・・・・
初期のパトロンは簡雍だった?
私はおそらく、簡雍が張平世と蘇双を劉備に紹介したと考えています。なぜなら、簡雍の先祖である耿純の本籍地である鉅鹿郡と張平世・蘇双が出身地である中山国は同じ冀州に所属しています。しかも中山国は鉅鹿郡の真北であり非常に近いのです。
簡雍は劉備に従っていた時点で幽州啄郡を本籍地に変えています。しかし心中では自分の本当の故郷は冀州鉅鹿郡と思っていたと推測されます。中国人は不思議なものであり、子孫が居住地を変更しても先祖が住んでいた場所こそ、自分の真の故郷であると考えるのです。
つまり簡雍と張平世、蘇双は先祖が同郷関係に該当しており、簡雍はその繋がりをもとに劉備軍の資金を調達したと推測されます。上記の件から劉備にとって簡雍は初期のパトロンともいえる存在と考えてもおかしくないでしょう。後年、簡雍が劉備や諸葛亮に対しても、だらしない格好をしても許されていたのは初期の資金調達の恩があったからと私は思います。
三国志ライター 晃の独り言
簡雍は正史『三国志』に列伝があるのですが、とにかく記述が短い。劉備の流浪時代の記述も大してありません。はっきりとした記述が出てくるのは劉備が益州を占領して以降です。陳寿もなぜ簡雍を収録したのかは不明ですが、やはり後漢の名門である耿氏一族の末裔ということで忖度して収録してあげたのかもしれません。
読者の皆様はどう思われますか?
※参考文献
・岡安勇「後漢における豪族勢力形成とその展開―とくに鉅鹿およびその他の耿氏についてー」(『法政史学』46 1994年)
・高島俊男『三国志 人物縦横断』(初出1994年 のち『三国志きらめく群像』ちくま文庫 2000年)
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文:晃
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