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この記事の目次
今川氏斯波氏と戦う為に甲斐から撤退
永正12年は、今川氏ばかりではなく、甲斐西郡の国衆である大井信達、信業父子も今川氏につき、信虎は親戚になった小山田信有と大井氏の本拠地、富田城を攻めて敗退、ここで小山田大和守、飯富道悦、飯富源四郎が戦死します。
永正13年9月28日に今川勢は甲斐侵攻を開始、信虎は本拠の川田館に近い万力において敗退、今川勢は勝山城を占拠すると各地を放火します。さらに都留郡でも、吉田山城を拠点とした今川勢と郡内衆が戦い、吉田山城が陥落し、郡内衆と今川氏で和睦が成立しました。
信虎は連敗が続き窮地に追い込まれますが、この頃、今川氏は遠江国において、大河内貞綱、斯波義達が引間城攻めをしていたために甲斐攻めどころではなくなり急転直下で信虎と和睦、今川氏は甲斐から撤退します。
最大のピンチをしのいだ信虎は、永正17年(1521年)自分を負かした大井信達の娘、大井夫人を正室に迎えます。翌年、大井夫人は懐妊し生まれたのが太郎、後の武田信玄です。
躑躅ヶ崎館を築き甲斐統一を果たす
信虎は永正15年(1518年)守護所を甲府へ移転、翌年には甲府に居館である躑躅ヶ崎館の建設に着手し城下町を整備し、有力国衆等家臣を集住させます。しかし、一部の国衆は甲府への集住に反発、栗原某、今井信是や大井信達が甲府を離脱。信虎はこれを許さず都塚において栗原勢を撃破、今諏訪で今井・大井勢を撃破しました。大永元年には、今川配下の土方城主、福島正成を主体とする今川勢が富士川沿いに河内地方へ侵攻、武田家と合戦になります。
ここで穴山氏が信虎に降伏、これに対して9月には今川勢が甲斐に侵攻し富田城を陥落させました。信虎は一度要害山城に退き、10月に飯田河原の戦いで今川勢を撃退し勝山城に退かせ、11月23日に上条河原の戦いで福島氏を打ち破り今川勢を駿河に駆逐します。この年には嫡男晴信が生まれ、翌年には今川氏と和睦、信虎は朝廷から従五位下左京大夫を受け、甲斐一国の支配を完成しました。
後北条氏との戦い
大永年間には、信虎は扇谷上杉・山内上杉と同盟し後北条氏と敵対、相模郡奥三保や武蔵国秩父に出兵、さらに北条方の武蔵岩付城の太田資高を攻めています。
信虎は遠征から帰国すると、大永5年(1525年)に北条氏綱と和睦、しかし、間もなく氏綱は越後の長尾為景と連携し上野侵攻を意図して信虎に領内通過を要請するも、信虎は山内上杉氏に配慮してこれを拒絶、和睦は破綻しました。その後、後北条氏とは一進一退の攻防が繰り返されます。
大永6年に信虎は上洛を果たそうとし、将軍足利義晴も御内書で上杉憲寛、諏訪頼満、木曾義元に対して信虎上洛に助力を命じていますが果たせませんでした。
享禄元年(1528年)には信濃、諏訪攻めを行いますが、神戸・堺川合戦で諏訪頼満・頼隆に敗退します。信虎は、後北条氏と戦う上で両上杉氏との関係強化を図り、山内上杉氏の前管領上杉憲房の後室を側室に迎え、戦いに本腰を入れますが、上杉氏との連携に失敗して後北条氏に敗北。
逆に甲斐の国衆では、上杉憲房の娘を武田氏に迎える事に反発が発生。栗原兵庫、今井信元、飯富虎昌が享禄4年に甲府を退去し御岳において信虎に抵抗。韮崎へ侵攻した信濃諏訪郡の諏訪頼満と同調、さらに西郡の大井信業も国人勢に呼応しました。
これに対し信虎は大井信業・今井備州らを滅ぼし、河原部合戦において栗原兵庫ら国人連合を撃破、さらに、今井信元に対して攻勢を強め、本拠である獅子吼城を明け渡させます。
この多忙な時期、甲斐では戦争と天災が相次ぎ、土一揆が起きかけたようで、信虎は、東日本の戦国大名としては初めて甲斐一国内を対象とした徳政令を発しています。
天文4年には今川攻めを行い、甲駿国境の万沢で合戦が行われると、今川と姻戚関係のある後北条氏が籠坂峠を越え山中へ侵攻され小山田氏や勝沼氏が敗北。同年には諏訪氏と和睦しました。
今川氏と同盟し信濃へと侵攻
天文5年(1536年)駿河で当主今川氏輝と弟彦五郎が同日に死去。氏輝の弟である善徳寺承芳(今川義元)と玄広恵探の間で家督争い、花倉の乱が発生します。信虎は北条氏綱と共に善徳寺承芳を支援、勝利させました。
信虎は早くから、今川義元本人や、生母の寿桂尼とコンタクトを取っていて同盟関係であり、長年敵対していた今川氏とも和睦の機運が生まれます。信虎は義元に娘の定恵院を輿入れさせて正室としました。さらに、義元の斡旋で嫡男の晴信の正室に公家の三条公頼の娘、三条夫人を迎えて関係を強化します。
しかし、甲駿同盟については、武田家中でも反発が起こり、反今川を表明し腹を切らされた家臣も出て、奉行衆が甲府を出る騒ぎが起きています。あっちを立てるとこっちが騒ぐ、武田の家中は面倒くさいですね。
また、今川氏の同盟国であった後北条氏も甲駿同盟に反発し、北条・今川間で第一次河東の乱が発生、この時、甲駿同盟は軍事同盟として機能し信虎は駿東郡へ兵を派遣し今川氏を支援しました。
後北条氏は天文7年に甲斐都留郡へ侵攻、吉田を襲撃しますが、天文8年に北条氏綱は武田氏と和睦します。信虎はこの頃、信濃では諏訪氏のほか村上義清とも結び、天文10年(1541年)武田・村上・諏訪三氏と共同で信濃佐久郡への遠征を行いました。
この遠征には、信虎は嫡男の武田晴信もともに出陣し、小県郡で起きた海野平の戦いで駆逐された海野棟綱が上野へ亡命し関東管領・上杉憲政を頼ると上杉憲政は佐久郡へ出兵、信虎は同盟国である山内上杉氏と衝突することを避け撤兵し、6月4日に晴信とともに甲斐へ帰国します。
帰国した信虎は天文10年6月14日に今川義元訪問のため駿州往還を駿河へ向かいますが、この途中に嫡男の晴信が甲駿国境に足軽を派遣して路地を封鎖し、信虎を国外追放する事件が発生するのです。
どうして信虎は追放されたのか?
天文10年6月14日、武田信虎が信濃から凱旋し、娘婿の今川義元と会う為に河内路を駿河に向かうタイミングで、甲斐に残った嫡男の晴信は板垣信方・甘利虎泰ら譜代家臣の支持を取り付け足軽を甲駿国境に配置して封鎖、信虎を強制隠居に追い込みます。
晴信が信虎を追放した理由には諸説あり、嫡男よりも次男の信繁を偏愛して廃嫡を考えるようになったという説や、晴信と重臣の共謀、今川義元との共謀、はては家臣の猿が信虎を咬んで、その腹いせで家臣を手打ちにした恨みなど、色々です。
しかし、これまで見た通り国衆と騒乱を繰り返した強権的な信虎に対して、国衆が愛想を尽かし、若く柔軟な晴信を担いだと考えるのが妥当でしょう。
実際に信虎の頻繁な戦争や、領地止め、相次ぐ自然災害により甲斐の物価は高騰して庶民を苦しめていたようで、晴信は庶民の怨嗟から土一揆が発生するのを恐れて、すべての元凶として信虎を槍玉にあげて追放する事で、事態の収束を図ったとも考えられます。
ただ、晴信は義元に隠居料を仕送りしており、義元も信虎に土地を与えるなどしていますし、正室の大井夫人は甲斐を出なかったものの側室は駿河に移動し、信虎は子供も為していて、扱いも御舅殿として今川一門より上位の扱いを受け、人質としては悪い暮らしではないようです。
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