武田信虎はどんな人?信玄の父は早熟の天才だった

2020年6月14日


 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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信虎のその後

 

信虎は過去に執着(しゅうちゃく)しない人だったようで、天文12年6月に上洛し、高野山や奈良を遊歴。さらに、無人斎道有(むじんさいどうゆう)を名乗って隠居している事から晴信の家督相続を認めていたようです。

 

これを見ると、やはり弟を偏愛して晴信を(うと)んじたという事はなく、ゆくゆくは家督を晴信に譲るつもりが多少早まった位の感覚だったのでしょう。

 

その後、義元に嫁いだ娘が天文19年に死去した為か、息子の武田信友に家督を譲り、生活の拠点を駿河から京都に移し幕府に在京奉公するようになります。

足利義輝

 

それも、ただの平幕臣ではなく、在京前守護として将軍足利義輝に仕え、身分は大名という高い席次で、信虎は上洛していた同じ甲斐源氏の一族でもある南部信長(なんぶのぶなが)ら諸大名と交流。

 

万里小路惟房(までのこうじこれふさ)飛鳥井雅教(あすかいまさのり)ら公家とも文化的な交流をするなど、充実した人生を送ります。

今川氏真

 

足利義輝が永禄の政変で三好三人衆に殺害された後は、織田信長が奉じた足利義昭に仕えますが、信長と義昭の関係が険悪になると義昭の命令で甲賀に派遣され反信長の近江六角氏と共に近江攻撃を意図していたようです。

 

形式上は、自分を追放した息子の武田信玄と共闘している形ですが、信玄は途中で病死してしまいました。その事を信虎はどう思っていたのか記録は残されていません。

武田信玄死去

 

信玄没後、甲斐では信玄側室との間に生まれた武田勝頼(たけだかつより)が家督を継ぐ形になります。天正2年(1574年)に信虎は可愛がっていた三男・武田信廉(たけだのぶかど)の居城である高遠城に身を寄せ、孫の勝頼とも対面したようです。

 

同年3月5日、武田信虎は、伊那の娘婿・根津松鴎軒常安(ねずしょうおうけんじょうあん)庇護(ひご)を受けつつ信濃高遠で病の床に就き81年の波乱万丈の生涯を閉じました。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

武田信虎の81年の生涯は、息子の武田信玄を超える波乱万丈さです。

 

確かに強権的で国衆とも周辺勢力とも軋轢を引き起こした信虎ですが、息子の信玄に甲斐を追放されると、寄寓(きぐう)先の今川家に悪態をつく事もなく、さらに兵力を集めて家督を奪い返そうともせず、あっさりと隠居して京都に向かい足利将軍家に仕えるなど文化的な事業に傾倒していく様子を見ると、必要だから強権的に振る舞っただけで、素顔は温厚で柔軟な性格の趣味人だったのかもしれません。

 

なにしろ14歳で初陣どころか、本格的な合戦に参加して家督を不動にした位ですから、戦の天才に違いありませんが、ほとんどがむしゃらで戦い、自分を振り返る余裕がなく、強制隠居させられて初めて自分が本当は何をしたいのか分かったんじゃないでしょうか?

文:kawauso

 

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武田信玄

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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