甲斐の戦国大名と言えば、風林火山でお馴染み武田信玄です。しかし、その父の武田信虎というと、ああ、あの粗暴な親父ねとなるかも知れません。大河ドラマでも、武田信虎は壮年で登場し嫡男の晴信を疎んじて逆に追放されてしまう役回りを演じているのです。
でも、そんな信虎は決して粗暴で切り捨てられるような人物ではなく若くして甲斐一国を纏め上げた早熟の天才でした。
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明応3年武田信虎生まれる
武田信虎は明応3年(1494年)もしくは明応7年1月6日武田氏17代当主武田信縄の嫡男として誕生しました。最初の名前は信直ですが、ここでは有名な武田信虎で表記を統一します。
信虎が生まれた頃、甲斐は非常に混乱していました。そもそもの原因は応永23年(1416年)関東管領の上杉禅秀の乱に甲斐の守護武田信満が加担して滅亡した事です。この事件で甲斐には守護がいなくなり、河内地方の穴山氏や郡内地方の小山田氏のような国人勢力や守護代の跡部氏が台頭して内乱状態でした。
祖父と父母が相次いで死に叔父と抗争する
しかし寛正6年(1465年)には16代当主の武田信昌が、専横を奮っていた守護代の跡部景家を滅亡させて甲斐国の実権を握り、明応元年(1492年)には嫡男の武田信縄に家督を譲って隠居します。
ところが、一度は信縄に家督を譲った筈の武田信昌が、今度は信縄の弟の油川信恵に家督を譲ると言い出し、武田家は信昌・信恵派と信縄派に分裂。この両者の抗争に甲斐の国人衆ばかりでなく、対外勢力も引き込みます。
当時、伊豆国堀越公方では、駿河国の今川氏親と将軍足利義澄の命を受けた伊勢宗瑞により堀越公方足利茶々丸が追放されていましたが、武田信縄は、この時に茶々丸を支持して匿い、さらに上野国の山内上杉氏とも結びました。
これに対し、信恵は駿河国の今川氏親・伊豆国の伊勢宗瑞と結んで対立します。しかし、明応7年8月25日に発生した明応地震の影響で、山内上杉氏や今川氏は戦争どころではなくなり自然に信縄・信恵に和睦が成立します。結果、用済みとなった足利茶々丸は伊勢宗瑞に引き渡されて斬殺されたそうです。19歳でした。
結果、武田信縄は家督を相続。永正2年(1505年)トラブルメーカーの信昌が死去します。これで落ち着くかと思いきや、永正3年には信虎の生母、岩下氏が、翌永正4年には当主の信縄が続けて死去しました。
自動的に、信縄の嫡男の武田信虎が13歳で家督を相続する事になりますが、これに納得できない叔父の信恵との間で家督を巡る抗争が再燃したのです。
叔父の油川信恵と小山田弥太郎を討つ
油川信恵は、弟の岩手縄美、栗原昌種、都留郡の国衆小山田弥太郎、河村氏、工藤氏、上条氏らと結び勝山城で挙兵し信虎に対抗します。永正5年、14歳の信虎は本拠の川田館から出撃すると勝山城に夜襲を掛け、油川信恵、岩手縄美、栗原昌種を討ち死にさせます。たった14歳で初陣同然なのに難易度の高い奇襲をかけるとは、戦の天才ですね。
生き残った小山田弥太郎は納得せず、信虎の本拠地の甲府に進撃、坊ケ峰で信虎と対峙。当初は小山田軍が戦争を有利に進めるものの、再び、信虎の奇襲が炸裂し弥太郎は討ち死にしました。さらに、永正6・7年も弥太郎の跡を継いだ小山田信有と信虎が抗争しますが、信虎の妹を信有に嫁がせる事で両者は和睦します。
今川氏親が甲斐に侵攻する大ピンチ
しかし、信虎を認めない甲斐の国衆の反乱は続きます。永正6年10月には、今井氏の本拠である江草城が小尾弥十郎に攻略され、丁衙城合戦では諏訪頼満による攻勢により今井信是の弟、武田平三と侍者が戦死します。
さらに永正10年には、穴山家の当主の穴山信懸が子息の清五郎に殺害され、さらに清五郎の兄弟の信風が清五郎を討ち穴山氏を継ぎます。穴山信風は今川氏に与し永正12年(1515年)には今川氏親が甲斐へ侵攻しました。
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