聖徳太子と言えば、過去に何度もお札の肖像画になり歴史音痴の人でもフルネームで言える日本古代史の有名人です。しかし、近年、この聖徳太子は存在しなかったという学説が出てテレビなどを賑わせています。でも、それって本当なんでしょうか?
今回のほのぼの日本史では、日本史上の巨人、聖徳太子が実在したかどうかを考えます。
※歴史研究は常に進歩するものです。今回の記事は2020年の段階での、ほのぼの日本史の結論とお考え下さい。
この記事の目次
聖徳太子は何をやった人なの?
聖徳太子は、後世の人がつけた尊称で生前の名前は厩戸皇子です。西暦593年女帝の推古天皇が即位すると、19歳で皇太子になり蘇我馬子と協力して政治を行い、国際的な緊張の中で遣隋使を派遣して当時の隋王朝と対等外交を結ぶと共に中国の文化や制度を導入。
さらに家柄ではなく実力で人材を登用した冠位十二階や、十七条憲法を定め、天皇や王族を中心とした中央集権国家体制の確立を図りました。
また、仏教や儒教を取り入れつつ日本古来の神道と共に信仰し興隆につとめています。聖徳太子は48歳で死去しましたが、成し遂げた多くの事績は、大陸に比較して遅れていた日本の文化レベルを大きく引きあげました。その意味で、聖徳太子は日本古代史上の巨人であり、死後100年を経過した頃には、すでに信仰の対象となっています。
聖徳太子はいなかった説とは?
聖徳太子はいなかった説というのは、大体以下のような内容です。
聖徳太子は実在の人物ではなく架空の人物である。ただしそのモデルになった厩戸皇子の存在は否定しない。厩戸皇子が存在したのは事実だが、その人物が日本書紀に描かれたような偉大な政治家であり、たぐいまれな思想家であった証拠は何一つなく、むしろそのような人物像は「日本書紀」の編集者による捏造である。
では、どうして大した事がない人物である厩戸皇子が聖徳太子として粉飾されたかと言うと、以下のような理由です。
藤原不比等が孫にあたる首皇子(のちの聖武天皇)の安定した皇位継承と王権の確立を願い、過去にも皇室にはこのように偉大な先輩がいたのだという事を強調したいが為に、日本書紀を改竄して、厩戸皇子の事績を盛りまくり虚構の聖天子としてでっち上げた。
うーん、、何ともスゴイ話です!
藤原不比等という藤原氏の祖が孫の聖武天皇の治世が安定するよう日本書紀で過去の歴史を改竄し、フィクションの聖徳太子をでっち上げたというのですから、、そりゃあ話題になるでしょうね。
事実、聖徳太子はいなかった説はマスコミで取り上げられ一大ブームになりました。
聖徳太子実在を裏付ける史料1
しかし、新説は言いっぱなしではいけません。日本書紀が聖徳太子という虚像を産み出したというのなら、それ以前の史料には聖徳太子という記述は存在しないという事を証明しないと、ただの陰謀論です。
ところが、日本書紀以前にも、聖徳太子という人物の存在は記録されているのです。
例えば伊予湯岡碑文です。この碑文は、西暦596年に聖徳太子が道後温泉を訪れて建立したと言われる金石文で、法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王と刻まれ、この法王大王が時期的に見て聖徳太子と考えられます。
ただし、こちらの碑文は原文ではない事から、聖徳太子没後の作とする説もあります。しかし、この碑文自体は、和銅6年(713年)に官命で編纂された古風土記にも引用されている事から、養老4年(720年)成立の日本書紀以前の碑文である事は間違いなく、そこに捏造の意があるとは考えがたいです。
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