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この記事の目次
- 1ページ目
- 「尾張名古屋は城でもつ」はずなのに地元では何故人気がないのか
- 名古屋城には第二次大戦までは、それはそれは大規模な城郭が残っていた
- 復元された名古屋城・本丸御殿の豪華さは将軍吉宗への恨み?
- 名古屋城・天守台の石垣は熊本城築城で有名なあの武将が建造
- 2ページ目
- 名古屋城の石垣 最大の見どころは
- 名古屋城の城下町 名古屋は台地の上に造られた人工都市
- 名古屋城のお堀を観察することで台地の縁を実感する
- ただの櫓(やぐら)が実は昔の清州城?
- 桶狭間の戦いの今川義元は侵略ではなく、奪い返しにきただけ?
- 3ページ目
- 名古屋城はどうして「廃城令」を逃れることが出来たのか
- 名古屋城で新政府軍(討幕軍)を迎え撃たなかった謎
- 財政難で丸裸!受難が続いた金の鯱(しゃちほこ)の運命とは?
- 名古屋城であの前田慶次に会える!名古屋おもてなし武将隊とは
- 戦国時代ライターかずさんの独り言
名古屋城の石垣 最大の見どころは
名古屋城の築城は細川忠興、黒田長政など西国を中心にした20の大名に堀を掘り、石垣を築く土木工事を命じました。各大名が切り出した石が誰の持ち物なのかわからなくならないため、印をつけていました。大部分は〇や△を組み合わせたような単純な印だったようですが、加藤清正は、家臣の名前を刻ませていました。これは、遠く離れた地で働く家臣たちの労苦に報いるために行ったのです。
豪気なイメージの強い加藤清正ですが、そういった心遣いが彼の本当の姿だったのでしょう。今でも石垣にはその印が残っていますので、ぜひ一度直接見て、加藤清正の心意気に触れてみてください。
名古屋城の城下町 名古屋は台地の上に造られた人工都市
今の名古屋城が建設される前は、このあたりの中心は織田信長が居城としていた「清州城」でした。しかし大阪から豊臣秀頼が攻めて来ると仮定した際、防衛線としては脆弱だったのです。当時の清州は庄内川水系の下流域で水害が多発する地域でした。水攻めにとても弱い場所だったのです。また天正地震で土地が液状化してしまい、大きなお城を建立することが不可能でした。
そこで熱田台地の北端に大規模な城が建設されることとなります。それに伴い、清州の町自体が名古屋城の城下町に引っ越し(清州越)することになります。つまり名古屋という町は、最初から「お城ありき」の町だったんですね。今は周囲にビルなどが建っており、地面の高低差をなかなか実感することはできませんが、名古屋城から熱田神宮、そして熱田の湊までは周囲と比べて5~10mほど高い台地になっています。
熱田台地の西側は大きな河川が複数集まった三角州であり、洪水がたびたび起こっていた地域でしたので、この5~10mというのはとても大きな差だったのだと思います。ちなみに5mはだいたいマンションの3階くらいの高さです。築城と町づくりには材木が必要ですよね。実は名古屋という町は材木を潤沢に手に入れられる町でした。
木曽地域や飛騨地方(今の岐阜県)などには建築に適した材木が大量にあります。それを木曽川、長良川、揖斐川に流す形で運ばれ、一旦海に出してから、熱田の湊(みなと)に集めます。そしてその材木は前述した「堀川」を使って運ばれたのです。そう考えると、名古屋城と名古屋の町は福島正則のおかげて建設されたといっても過言ではないでしょう。
名古屋城のお堀を観察することで台地の縁を実感する
名古屋城は熱田台地の北西先端部に築城されています。ですのでお城の北側と西側は台地の外側になりますので土地が低く、南側と東側の土地は台地側なので土地が高くなっています。お城は地形を最大限に活かした造りとなっておりますので、北側と西側の堀は水がはってある水堀、南側と東側の堀は水のはっていない空堀です。
空堀には当然水がないですから、石垣の全貌を観察することができますので、隠れた鑑賞スポットです。また、水堀の水はどこからか引いてきている訳ではありません。水堀のは堀から溢れ、堀川に流れ出しています。つまり常に満水状態であるということです。これはおそらくですが、築城するまえから台地の先端から水がしみ出しており、それを利用したのではないかと思います。何故かというと、江戸時代に水源の調査が行われたという記録が残っているからです。
意図的に造られたものであれば、築城の際に記録が残っている筈ですから水源の調査など行われる筈はありません。ちなみにこの調査では水源を特定することはできなかったようです。地理好き、地形好きの方は事前に調べてから、「ブラタモリ」風に観察してみると楽しいのではないでしょうか。
ただの櫓(やぐら)が実は昔の清州城?
名古屋城には重要文化財に指定されている櫓が3つあります。「西南隅櫓」「東南隅櫓」「西北隅櫓」です。通常は内部は公開されていませんが、期間限定で公開されることもあるそうです。当時の建築様式が堪能できる造りになっているようですので、興味のある方はぜひ公開期間を調べて見学してみてください。その3つの櫓の中で、西からの敵を想定した名古屋城の護りの要である「西北隅櫓」は「清州櫓」と呼ばれています。もともとは清州城から小天守を移築したという言い伝えからそう言われていたようですが、調査の結果、移築を否定する説が有力のようです。
しかし、清州城移転の際、天守閣に使われていた木材を二次利用したのは間違いなさそうです。そうなりますと、ここに使われている木材たちは「本能寺の変」後に信長の後継者を決めるために開かれた「清須会議」の様子を聞いていたことになります。そう考えると歴史の浪漫を感じますよね。
桶狭間の戦いの今川義元は侵略ではなく、奪い返しにきただけ?
室町時代(1524年)に現在の名古屋城の前身となる那古屋(なごや)城が建てられたのですが、当時の城主は今川家でした。戦国時代となって尾張守護代であった織田信秀(織田信長の父)が台頭し、1538年頃に今川義元の弟である氏豊から奪い取ってしまいます。
「えっ、じゃあ那古屋や熱田の湊はもともと今川家のもので、それを奪った織田家が海運を手に入れて富を得たってことなんですね。」ってことになります。
「桶狭間の戦いって「駿河という大国の領主であった今川義元が小国である尾張の国を侵略しに来たわけではなく、今川家が織田家に奪われた城を取り返しに来ただけじゃないですか。」
実はそうなんです。歴史って知れば知るほど楽しくなりますね。織田信長の父である信秀はかなりやり手であったようですから、その人物が没して子供の代になった。
さらにその子供は「うつけ」と呼ばれている、となれば、そりゃあ今川家としては奪い返しに行こう!ってなりますよね。名古屋城の前身、那古屋(なごや)城にはそんな事実が隠されていました。
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