戦国時代の「城」を鑑賞する時、何を愉しみの核とするのかは人それぞれだと思います。ある人は建造物としての美しさを、ある人は歴史的背景を。そういえばTVに出ていた小学生は、「その城を攻めている足軽の気持ちになって歩いている」って語っていましたね。
筆者と同じだったのでびっくりしたのを覚えています。しかし今の名古屋城が戦場となった歴史はありません。1609年、徳川家康は、大阪にいる豊臣秀頼が攻めてきた際の防衛線として築城を決断します。しかし実際に徳川VS豊臣の決戦が行われたのは大阪城でした。
幕末の際にも徳川幕府の防衛線とはなりませんでした。つまり一度も「城」としての役目を果たしたことはないのです。そんな名古屋城を観に行くとしたら、何を愉しみの核としたら良いのでしょうか。今日はそのあたりについて、様々な角度から考察していきたいと思います。
この記事の目次
- 「尾張名古屋は城でもつ」はずなのに地元では何故人気がないのか
- 名古屋城には第二次大戦までは、それはそれは大規模な城郭が残っていた
- 復元された名古屋城・本丸御殿の豪華さは将軍吉宗への恨み?
- 名古屋城・天守台の石垣は熊本城築城で有名なあの武将が建造
- 名古屋城の石垣 最大の見どころは
- 名古屋城の城下町 名古屋は台地の上に造られた人工都市
- 名古屋城のお堀を観察することで台地の縁を実感する
- ただの櫓(やぐら)が実は昔の清州城?
- 桶狭間の戦いの今川義元は侵略ではなく、奪い返しにきただけ?
- 名古屋城はどうして「廃城令」を逃れることが出来たのか
- 名古屋城で新政府軍(討幕軍)を迎え撃たなかった謎
- 財政難で丸裸!受難が続いた金の鯱(しゃちほこ)の運命とは?
- 名古屋城であの前田慶次に会える!名古屋おもてなし武将隊とは
- 戦国時代ライターかずさんの独り言
「尾張名古屋は城でもつ」はずなのに地元では何故人気がないのか
「伊勢は津で持つ 津は伊勢で持つ 尾張名古屋は城で持つ」という、地元の唄があります。伊勢(神宮)は津の港があるからたくさんの参拝客が来る、津の港は伊勢への参拝客でにぎわっている。尾張の名古屋は城が出来たので栄えている、という意味なんだそうです。
唄に謡われるほどの存在であった名古屋城ですが、実はここしばらくは地元の人には不評でした。地元の人からもそういった評価でしたから、外から人が集まるはずがありません。姫路城や彦根城とはえらい違いです。どうしてなのでしょうか。まずはその点について探ってみたいと思います。
名古屋城には第二次大戦までは、それはそれは大規模な城郭が残っていた
今建っている名古屋城は戦後に建てられたものです。第二次世界大戦末期に襲った、名古屋周辺への度重なる空襲によって、江戸時代に建てられた名古屋城は焼失してしまいました。しかし、名古屋市民から再建の声が高まり、多くの募金が寄せられ、1959年に大天守、小天守、正門が鉄骨鉄筋コンクリートで再建されました。それが今の名古屋城です。
※現在は、耐震強度不足が理由で場内への立ち入りは禁止されています。やはり、名古屋城は地元の人たちに愛されていたんですね。ではどうして人気がなくなってしまったのでしょうか。それは、以前の名古屋城があまりにも立派だったからではないかと思います。
実は焼失してしまう前の名古屋城は、城郭として初めて旧国宝に指定されるなど非常に高い価値(大天守、小天守、本丸御殿、西南隅櫓、東南隅櫓、西北隅櫓、東北隅櫓、不明門、正門など24棟や旧本丸御殿障壁画など)の文化財が大規模に残っていたそうです。姫路城よりも先に旧国宝にしていされていたなんで驚きですね。
「尾張名古屋は城でもつ」と謡われるだけの価値がある建造物であった姿を知っている地元の人たちにとって、鉄筋コンクリートという変わり果ててしまった名古屋城は、目を覆いたくなる存在になってしまったと想像するわけです。
「じゃあ、行く価値なんてないじゃないか」と思われるかもしれません。しかし、歴史を知り、地形を知ると名古屋城は見どころが満載です。ひとつひとつご案内していきましょう。
復元された名古屋城・本丸御殿の豪華さは将軍吉宗への恨み?
本丸御殿とは要するにお殿様の住居です。1615年(慶長20)に完成したと言われています。御殿の内部は障壁画や飾金具などで絢爛豪華に飾られ、江戸時代の先端技術を注いだ近世城郭御殿の最高傑作とたたえられるほどでした。1930年(昭和5)には、城郭では天守閣とともに国宝第一号に指定されていることからも、その価値の高さが伺えます。第二次世界大戦の空襲で焼失してしまったのですが、運が良かったのは、江戸時代の図面や記録、昭和戦前期に作成された実測図、古写真などが焼けずに残ったこと。特に写真が400枚以上あったというから驚きです。
実は最後の名古屋城主であった尾張藩十四代藩主 徳川慶勝は「安政の大獄」で隠居させられるという憂き目にあうのですが、それから写真に没頭するようになったことがその理由なんですね。これらの資料が、正確な復元に大きく寄与することになるのです。こうした様々な資料が現存していたため。驚くべき正確な復元が行われ、遂に2018年(平成30)に一般公開されています。江戸幕府将軍家光の滞在のために造られた「上洛殿」や「湯殿書院」が完成し、その雄大で美しく、圧巻な姿を間近で見ることができます。
豪華さに目を奪われる「本丸御殿」ですがそれにまつわる裏話を一つ。「享保の改革」で有名な八代将軍吉宗と、最後まで将軍の座を争ったのが時の尾張藩主である宗春でした。家柄としては紀伊藩より尾張藩の方が上ですから、当然尾張藩主である宗春が跡目を継ぐと思われていたのですが、争いに敗れてしまいます。その後宗春は「享保の改革」に真っ向から反発し、質素倹約を嫌い、芸や技術の発展に寄与したそうです。
もしかしたら、その伝統が脈々と本丸御殿に生き続けていたのかもしれません。伝統を受け継ぐと言えば、幕末において当然徳川幕府側につくべきはずの尾張藩が、新政府側につくことになっていったのは、この当時からの「江戸幕府への恨み」が脈々と受け継がれていたのかもしれません。
名古屋城・天守台の石垣は熊本城築城で有名なあの武将が建造
次の見どころとしてはなんといっても「石垣」です。熊本城の築城で名を馳せた「加藤清正」が天守台の石垣を担当したと言われています熊本城の築城が1606年ですから休む暇を与えられなかったようですね。
ちなみに、加藤清正と並び称される、豊臣秀吉子飼いの猛将、「福島正則」も、家康からの依頼のもと、名古屋城と熱田の湊(みなと)を結ぶ物流の要「堀川」という人工河川を掘っています。よく考えれば、元々徳川家康は三河地区の出身ですから、名古屋城周辺に縁もゆかりもありません。一方で、加藤清正の出生地は現在名古屋市中村区、福島正則は現在の愛知県あま市(名古屋市と木曽三川の間)です。徳川家康がこの二人に依頼したのは、忠誠心を見るための罠だったのかもしれません。
この地区には二人の願いであれば断れない、縁もゆかりもたっぷりの人たちが大勢いたはずです。なのに、加藤清正は徳川家康から与えられた領地・肥後(今の熊本県)から2万人を引き連れて、わずか3か月で天守台の石垣を完成させてしまいました。おそらく、地元で声をかければ、大勢の人工が馳せ参じたんでしょうが、それをしてしまうと謀反を企てたとの濡れ衣を着させられるのを恐れたのかもしれません。この時、地元の人たちはどんな思いで工事をみていたのでしょうか。そんなことを想いながら石垣を鑑賞して観るのも一興かと思います。
名古屋城の石垣 最大の見どころは
名古屋城の築城は細川忠興、黒田長政など西国を中心にした20の大名に堀を掘り、石垣を築く土木工事を命じました。各大名が切り出した石が誰の持ち物なのかわからなくならないため、印をつけていました。大部分は〇や△を組み合わせたような単純な印だったようですが、加藤清正は、家臣の名前を刻ませていました。これは、遠く離れた地で働く家臣たちの労苦に報いるために行ったのです。
豪気なイメージの強い加藤清正ですが、そういった心遣いが彼の本当の姿だったのでしょう。今でも石垣にはその印が残っていますので、ぜひ一度直接見て、加藤清正の心意気に触れてみてください。
名古屋城の城下町 名古屋は台地の上に造られた人工都市
今の名古屋城が建設される前は、このあたりの中心は織田信長が居城としていた「清州城」でした。しかし大阪から豊臣秀頼が攻めて来ると仮定した際、防衛線としては脆弱だったのです。当時の清州は庄内川水系の下流域で水害が多発する地域でした。水攻めにとても弱い場所だったのです。また天正地震で土地が液状化してしまい、大きなお城を建立することが不可能でした。
そこで熱田台地の北端に大規模な城が建設されることとなります。それに伴い、清州の町自体が名古屋城の城下町に引っ越し(清州越)することになります。つまり名古屋という町は、最初から「お城ありき」の町だったんですね。今は周囲にビルなどが建っており、地面の高低差をなかなか実感することはできませんが、名古屋城から熱田神宮、そして熱田の湊までは周囲と比べて5~10mほど高い台地になっています。
熱田台地の西側は大きな河川が複数集まった三角州であり、洪水がたびたび起こっていた地域でしたので、この5~10mというのはとても大きな差だったのだと思います。ちなみに5mはだいたいマンションの3階くらいの高さです。築城と町づくりには材木が必要ですよね。実は名古屋という町は材木を潤沢に手に入れられる町でした。
木曽地域や飛騨地方(今の岐阜県)などには建築に適した材木が大量にあります。それを木曽川、長良川、揖斐川に流す形で運ばれ、一旦海に出してから、熱田の湊(みなと)に集めます。そしてその材木は前述した「堀川」を使って運ばれたのです。そう考えると、名古屋城と名古屋の町は福島正則のおかげて建設されたといっても過言ではないでしょう。
名古屋城のお堀を観察することで台地の縁を実感する
名古屋城は熱田台地の北西先端部に築城されています。ですのでお城の北側と西側は台地の外側になりますので土地が低く、南側と東側の土地は台地側なので土地が高くなっています。お城は地形を最大限に活かした造りとなっておりますので、北側と西側の堀は水がはってある水堀、南側と東側の堀は水のはっていない空堀です。
空堀には当然水がないですから、石垣の全貌を観察することができますので、隠れた鑑賞スポットです。また、水堀の水はどこからか引いてきている訳ではありません。水堀のは堀から溢れ、堀川に流れ出しています。つまり常に満水状態であるということです。これはおそらくですが、築城するまえから台地の先端から水がしみ出しており、それを利用したのではないかと思います。何故かというと、江戸時代に水源の調査が行われたという記録が残っているからです。
意図的に造られたものであれば、築城の際に記録が残っている筈ですから水源の調査など行われる筈はありません。ちなみにこの調査では水源を特定することはできなかったようです。地理好き、地形好きの方は事前に調べてから、「ブラタモリ」風に観察してみると楽しいのではないでしょうか。
ただの櫓(やぐら)が実は昔の清州城?
名古屋城には重要文化財に指定されている櫓が3つあります。「西南隅櫓」「東南隅櫓」「西北隅櫓」です。通常は内部は公開されていませんが、期間限定で公開されることもあるそうです。当時の建築様式が堪能できる造りになっているようですので、興味のある方はぜひ公開期間を調べて見学してみてください。その3つの櫓の中で、西からの敵を想定した名古屋城の護りの要である「西北隅櫓」は「清州櫓」と呼ばれています。もともとは清州城から小天守を移築したという言い伝えからそう言われていたようですが、調査の結果、移築を否定する説が有力のようです。
しかし、清州城移転の際、天守閣に使われていた木材を二次利用したのは間違いなさそうです。そうなりますと、ここに使われている木材たちは「本能寺の変」後に信長の後継者を決めるために開かれた「清須会議」の様子を聞いていたことになります。そう考えると歴史の浪漫を感じますよね。
桶狭間の戦いの今川義元は侵略ではなく、奪い返しにきただけ?
室町時代(1524年)に現在の名古屋城の前身となる那古屋(なごや)城が建てられたのですが、当時の城主は今川家でした。戦国時代となって尾張守護代であった織田信秀(織田信長の父)が台頭し、1538年頃に今川義元の弟である氏豊から奪い取ってしまいます。
「えっ、じゃあ那古屋や熱田の湊はもともと今川家のもので、それを奪った織田家が海運を手に入れて富を得たってことなんですね。」ってことになります。
「桶狭間の戦いって「駿河という大国の領主であった今川義元が小国である尾張の国を侵略しに来たわけではなく、今川家が織田家に奪われた城を取り返しに来ただけじゃないですか。」
実はそうなんです。歴史って知れば知るほど楽しくなりますね。織田信長の父である信秀はかなりやり手であったようですから、その人物が没して子供の代になった。
さらにその子供は「うつけ」と呼ばれている、となれば、そりゃあ今川家としては奪い返しに行こう!ってなりますよね。名古屋城の前身、那古屋(なごや)城にはそんな事実が隠されていました。
名古屋城はどうして「廃城令」を逃れることが出来たのか
明治時代が始まるまで、日本全国いたるところに天守(お城)があったわけですが、現在は12基しか残っていません。それはどうしてなのでしょうか。実は天守が減ってしまったのは、大きく2つの時代背景が考えられます。
「一国一城令」
徳川幕府は大名の防衛力を削ぐため、居所となる1城以外の城の破却と、新しく城を造ることを禁止しました。それによって全国に3000程あった城は江戸時代には170ほどに激減してしまいます。
「廃城令」
廃藩置県を機に天守(お城)は一旦陸軍の所有物となりました。しかしすべてが軍用地として必要だったわけではなく、維持費に莫大な費用がかかったため、要塞として必要な天守(お城)は残されることとなり、その他の城は財務省の管理となり、取り壊されてしまいました。
お城跡に学校や県庁、警察署などが建っているのはそのためです。こうした動きの中、陸軍の中に「城を守ろう!」という動きが起きます。そして「姫路城」と「名古屋城」が永久保存されることとなりました。
つまり日本にあった他の城と比べても明らかに文化的価値が高いと判断されたということです。「姫路城」と並び称された当時の「名古屋城」はどれほど素敵だったんでしょうね。戦争で焼けてしまったことがつくづく残念ですが、それを正確に復元しようという計画があるのですから、今からとても愉しみです。
名古屋城で新政府軍(討幕軍)を迎え撃たなかった謎
名古屋城はそもそも何の目的で築城されたのでしょうか。それは西国の大名からの攻撃に備え、江戸を護るためでした。であったとすれば、幕末に討幕軍が江戸に向かって進軍する際、名古屋城が防衛線となり「いくさ」が起こってもおかしくない筈なのに、全く起こりませんでした。
最後の将軍である徳川慶喜は3倍の兵を要しながら鳥羽伏見の戦いで新政府軍に敗退してしまいます。そこで軍事拠点であった大阪城から江戸城に引き上げるのですが、陸路を使わず、なんとわずかな重臣たちを連れて軍艦で江戸に引き上げてしまったのです。
兵の数としては有利であったのに敗戦してしまった理由は、勝海舟など軍事に長けていた家臣が皆江戸にいたためと言われています。もしそうであれば体制を立て直し、勝海舟などを呼び寄せて名古屋城で迎え撃てば勝利できたかもしれません。
しかし徳川慶喜にはそれが出来ない理由がありました。実は尾張藩は徳川御三家であるのも関わらず、藩主であった徳川慶勝は新政府軍側についたのです。もし尾張藩が徳川幕府側についていたのであれば、慶喜は大阪から軍艦で逃げるなんてことをしなくても良かったはずです。
幕末を語る上で、薩摩、長州、土佐が表舞台に出てきますが、実は徳川幕府にとどめを刺したのは、一番の味方になるはずの徳川御三家である尾張藩だったのです。御三家の中では格が一番上であるのも関わらず、将軍の家督争いでは常に敗北し、疎んじられ続けたという恨みが脈々と受け継がれ、反江戸幕府の思想が育まれていたのでしょう。
こうして名古屋城は一度も戦場になることはありませんでした。もし新政府軍と徳川幕府軍の決戦が名古屋城で行われていたならば、どちらが勝利したでしょうか。もし自分が軍師として戦ったとしたら。名古屋城に行くと、ついそんなことを考えてしまいます。
財政難で丸裸!受難が続いた金の鯱(しゃちほこ)の運命とは?
名古屋城といえば「金の鯱」ですが、実は1612年に設置された時には、純金換算で215.3kgが使用されて造られています。金箔ではない、本物の金のみで津来られたのは名古屋城のみでした。
「尾張名古屋は城でもつ」と謡われた頃は、それはそれはきらびやかだったことでしょう。しかし「享保の改革」に真っ向から反対をした影響からか、1730年に尾張藩は財政難に陥り、鱗をはがしては小判に鋳直して、代わりに純度の低い鱗を貼り直していました。会社のお金を使い込んでしまって、帳簿をごまかしている経理担当者みたいでせこいですね。
それ以降も何度か繰り返され、明治の頃にはすっかりやせ細り、色あせてしまいました。それでも大量の金が使われていることには変わりがなく、何度も盗難にあっています。一番最近の事例としては、昭和12年に雄の胴体の金鱗110枚のうち、58枚が盗難にあっています。当時、測量のために足場が組まれていたそうで、犯人はそれを登って盗んだのだとか。ずいぶんずさんな管理だったんですね。
犯人は延べ棒に鋳直して貴金属店に売りに来たところを逮捕されました。犯人はもしかしたら純金だと思い込んでいたのかもしれませんね。もう少し過去にさかのぼると、明治時代にも3度盗まれてします。現在復元された「金の鯱」に使われている金は88kg。当初と比べ1/3となってしまっていますが、それでも一見の価値がある、名古屋城鑑賞の目玉です。
名古屋城であの前田慶次に会える!名古屋おもてなし武将隊とは
名古屋おもてなし武将隊とは、武将出生地名古屋をPRするために結成された、名古屋市の観光PR部隊です。甲冑ダンスや寸劇、口上、和太鼓演奏などを行い、名古屋城鑑賞を盛り上げてくれています。公式サイト上で名古屋城での出陣表が掲載されていますので、お目当ての武将の出陣日に合わせて名古屋城に行ってみてはいかがでしょうか。
ちなみに名古屋おもてなし武将隊は、「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」「前田利家」「加藤清正」そして「前田慶次」の6武将で構成されています。筆者としては「徳川家康」の代わりに「福島正則」を入れてほしかったですね。
「花の慶次 雲のかなたに」という漫画にも描かれ、人気の高い前田慶次は、前田利家と共に加賀(現在の石川県)のイメージが強いですが、実は名古屋市中川区出身です。熱田大地の南端にある熱田神宮の宝物館には「前田慶次」の遺品だと言われている太刀が奉納されています。
もし時間が許すのであれば、名古屋城を鑑賞した後、タクシーや自家用車で堀川脇を走りながら、熱田神宮、そして熱田の湊(七里の渡し)を一気に訪れていただきたいと思います。
戦国時代ライターかずさんの独り言
名古屋城に興味は湧いてきましたでしょうか。前述にもありました通り、実は今、オリジナルに忠実な木造の天守閣を復活させるというプロジェクトが、河村市長の陣頭指揮の元に進められています。
当初は2022年の完成を目標としていましたが、どうやら2028年くらいに伸びそうということです。もちろん「完成を待っていこう」という考え方もあると思いますが、現時点でも鑑賞のポイントはたくさんあります。天守閣が完成したら、大勢の観光客が訪れることが予想されますので、じっくり鑑賞するならまさに今だと思います。
観光地不在と言われ、伊勢神宮や京都、白川郷や北陸への乗換駅としてしか機能していなかった名古屋が、その脱却の切り札として推し進めている名古屋城の復元。「尾張名古屋は城で持つ」をぜひ体現しに行ってみてください。
文:かずさん
参考記事:
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