名古屋城とはどんなお城?受難が続いた金鯱の秘密や名古屋城の魅力

2020年6月16日


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名古屋城とはどんなお城(1P目)

 



監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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名古屋城はどうして「廃城令」を逃れることが出来たのか

幕末64-14_衣替えする民間人 文明開化

 

明治時代が始まるまで、日本全国いたるところに天守(お城)があったわけですが、現在は12基しか残っていません。それはどうしてなのでしょうか。実は天守が減ってしまったのは、大きく2つの時代背景が考えられます。

 

一国一城令(いっこくいちじょうれい
)

 

徳川幕府は大名の防衛力を削ぐため、居所となる1城以外の城の破却と、新しく城を造ることを禁止しました。それによって全国に3000程あった城は江戸時代には170ほどに激減してしまいます。

 

廃城令(はいじょうれい)

 

廃藩置県を機に天守(お城)は一旦陸軍の所有物となりました。しかしすべてが軍用地として必要だったわけではなく、維持費に莫大な費用がかかったため、要塞として必要な天守(お城)は残されることとなり、その他の城は財務省の管理となり、取り壊されてしまいました。

 

お城跡に学校や県庁、警察署などが建っているのはそのためです。こうした動きの中、陸軍の中に「城を守ろう!」という動きが起きます。そして「姫路城」と「名古屋城」が永久保存されることとなりました。

 

つまり日本にあった他の城と比べても明らかに文化的価値が高いと判断されたということです。「姫路城」と並び称された当時の「名古屋城」はどれほど素敵だったんでしょうね。戦争で焼けてしまったことがつくづく残念ですが、それを正確に復元しようという計画があるのですから、今からとても愉しみです。

 

名古屋城で新政府軍(討幕軍)を迎え撃たなかった謎

 

名古屋城はそもそも何の目的で築城されたのでしょうか。それは西国の大名からの攻撃に備え、江戸を護るためでした。であったとすれば、幕末に討幕軍が江戸に向かって進軍する際、名古屋城が防衛線となり「いくさ」が起こってもおかしくない筈なのに、全く起こりませんでした。

 

皇帝になった徳川慶喜

 

最後の将軍である徳川慶喜(とくがわ よしのぶ
)
は3倍の兵を要しながら鳥羽伏見の戦いで新政府軍に敗退してしまいます。そこで軍事拠点であった大阪城から江戸城に引き上げるのですが、陸路を使わず、なんとわずかな重臣たちを連れて軍艦で江戸に引き上げてしまったのです。

 

勝海舟

 

兵の数としては有利であったのに敗戦してしまった理由は、勝海舟(かつ かいしゅう
)
など軍事に長けていた家臣が皆江戸にいたためと言われています。もしそうであれば体制を立て直し、勝海舟などを呼び寄せて名古屋城で迎え撃てば勝利できたかもしれません。

 

 

しかし徳川慶喜にはそれが出来ない理由がありました。実は尾張藩は徳川御三家であるのも関わらず、藩主であった徳川慶勝は新政府軍側についたのです。もし尾張藩が徳川幕府側についていたのであれば、慶喜は大阪から軍艦で逃げるなんてことをしなくても良かったはずです。

 

丹下だんぺ風の島津斉彬(薩摩藩)

 

幕末を語る上で、薩摩、長州、土佐が表舞台に出てきますが、実は徳川幕府にとどめを刺したのは、一番の味方になるはずの徳川御三家である尾張藩だったのです。御三家の中では格が一番上であるのも関わらず、将軍の家督争いでは常に敗北し、疎んじられ続けたという恨みが脈々と受け継がれ、反江戸幕府の思想が育まれていたのでしょう。

 

大砲が爆発して黒こげになるサムライ

 

こうして名古屋城は一度も戦場になることはありませんでした。もし新政府軍と徳川幕府軍の決戦が名古屋城で行われていたならば、どちらが勝利したでしょうか。もし自分が軍師として戦ったとしたら。名古屋城に行くと、ついそんなことを考えてしまいます。

 

財政難で丸裸!受難が続いた金の鯱(しゃちほこ)の運命とは?

 

名古屋城といえば「金の(しゃちほこ)」ですが、実は1612年に設置された時には、純金換算で215.3kgが使用されて造られています。金箔ではない、本物の金のみで津来られたのは名古屋城のみでした。

 

「尾張名古屋は城でもつ」と謡われた頃は、それはそれはきらびやかだったことでしょう。しかし「享保の改革」に真っ向から反対をした影響からか、1730年に尾張藩は財政難に陥り、鱗をはがしては小判に鋳直して、代わりに純度の低い鱗を貼り直していました。会社のお金を使い込んでしまって、帳簿をごまかしている経理担当者みたいでせこいですね。

 

それ以降も何度か繰り返され、明治の頃にはすっかりやせ細り、色あせてしまいました。それでも大量の金が使われていることには変わりがなく、何度も盗難にあっています。一番最近の事例としては、昭和12年に雄の胴体の金鱗110枚のうち、58枚が盗難にあっています。当時、測量のために足場が組まれていたそうで、犯人はそれを登って盗んだのだとか。ずいぶんずさんな管理だったんですね。

 

犯人は延べ棒に鋳直して貴金属店に売りに来たところを逮捕されました。犯人はもしかしたら純金だと思い込んでいたのかもしれませんね。もう少し過去にさかのぼると、明治時代にも3度盗まれてします。現在復元された「金の鯱」に使われている金は88kg。当初と比べ1/3となってしまっていますが、それでも一見の価値がある、名古屋城鑑賞の目玉です。

 

名古屋城であの前田慶次に会える!名古屋おもてなし武将隊とは

 

名古屋おもてなし武将隊とは、武将出生地名古屋をPRするために結成された、名古屋市の観光PR部隊です。甲冑ダンスや寸劇、口上、和太鼓演奏などを行い、名古屋城鑑賞を盛り上げてくれています。公式サイト上で名古屋城での出陣表が掲載されていますので、お目当ての武将の出陣日に合わせて名古屋城に行ってみてはいかがでしょうか。

 

麒麟にまたがる織田信長

 

ちなみに名古屋おもてなし武将隊は、「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」「前田利家」「加藤清正」そして「前田慶次」の6武将で構成されています。筆者としては「徳川家康」の代わりに「福島正則」を入れてほしかったですね。

 

前田利家

 

「花の慶次 雲のかなたに」という漫画にも描かれ、人気の高い前田慶次(まえだけいじ)は、前田利家(まえだ としいえ
)
と共に加賀(現在の石川県)のイメージが強いですが、実は名古屋市中川区出身です。熱田大地の南端にある熱田神宮の宝物館には「前田慶次」の遺品だと言われている太刀が奉納されています。

 

もし時間が許すのであれば、名古屋城を鑑賞した後、タクシーや自家用車で堀川脇を走りながら、熱田神宮、そして熱田の湊(七里の渡し)を一気に訪れていただきたいと思います。

 

戦国時代ライターかずさんの独り言

戦国史ライターかずさん

 

名古屋城に興味は湧いてきましたでしょうか。前述にもありました通り、実は今、オリジナルに忠実な木造の天守閣を復活させるというプロジェクトが、河村市長の陣頭指揮の元に進められています。

 

当初は2022年の完成を目標としていましたが、どうやら2028年くらいに伸びそうということです。もちろん「完成を待っていこう」という考え方もあると思いますが、現時点でも鑑賞のポイントはたくさんあります。天守閣が完成したら、大勢の観光客が訪れることが予想されますので、じっくり鑑賞するならまさに今だと思います。

 

観光地不在と言われ、伊勢神宮や京都、白川郷や北陸への乗換駅としてしか機能していなかった名古屋が、その脱却の切り札として推し進めている名古屋城の復元。「尾張名古屋は城で持つ」をぜひ体現しに行ってみてください。

文:かずさん

 

参考記事:

名古屋城公式ウェブサイト(外部サイト)

堀川の歴史 - 名古屋市(外部サイト)

 

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かずさん

かずさん

ライター自己紹介: 歴史との出会いは小学生の頃、図書館にあった日本の歴史に関する「漫画」でした。その後、ベタですがNHKの大河ドラマが好きすぎて「戦国時代」と「幕末」にはまっていきました。最近では城郭考古学者である千田先生の影響で「城」に一番の興味を持っています。先陣をきって攻めている足軽の気持ちになっての城散策が最高に楽しいです。 好きな歴史人物: 土方歳三、前田慶次、山本勘助、北条早雲、関羽雲長 etc 何か一言: 教科書で習ったイメージと事実とのあまりにも大きなギャップに驚きを隠せない今日この頃です。

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