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この記事の目次
家臣の命を大事にした家康
戦国武将というと、死が間近にあるので、もっと人の死に鈍感なイメージがありますが、家康は決してそうではなく、常に犬死と意味のある死を考え、家臣が犬死で命を落とす殉死の習慣を強く憎んでいました。
だからこそ、江戸時代にわかに流行しだした殉死を禁止しようと強い言葉で誡め続けたのであり、自分が病死した時に殉死が出るなど、とんでもない事と考えて辞世の句で警告を発したのでしょう。
家康のほのぼの辞世の句
実は、家康にはもう一つ辞世の句が残っていて、それはほのぼのしたものでした。
うれしやと 再び醒めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空
ここには、天下を背負っているという重責はなく、全てをやり遂げて眠るような気持ちで、冥途の旅に向かう老いた家康の姿が浮かんできます。家康というと、狸親父という老獪な政治家のイメージがありますが、辞世の句は悟りきったような子供に戻ったような無邪気ささえ感じ取れますね。
その後の殉死は?
家康が禁止した殉死ですが、戦国の荒々しい気風が残っている時代には、完全に止める事は難しかったようです。しかし、幕府も開府から60年以上が過ぎると戦国の荒々しい気風も落ち着き、幕府政治も武断政治から文治政治へと移行します。
寛文3年(1663年)5月の武家諸法度の公布と共に、殉死は「不義無益」であるとして禁止が口頭伝達され本格的に禁止されます。
寛文8年には殉死の禁に反したという理由で宇都宮藩の奥平昌能が転封処分を受けるなど処罰も厳しくなり、この後、延宝8年(1680年)に前佐倉藩主堀田正信が流刑地で将軍徳川家綱死去の報を聞き、鋏で喉を突き自害したのが江戸時代の殉死の最期のようです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
家康の辞世の句には、家康のすぐに主君の後を追いたがる家臣への最大限の配慮がありました。本来なら、ここまで厳しく言わなくてもいい事だと思えますが、日本社会の同調圧力は上に立つ者が断じて否定しないと消える物ではなく周囲の殉死しろという無言の圧力で死んでしまう武士もいたのです。
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