関ヶ原の勝利後、家康が14年も豊臣家を滅ぼさなかった理由


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徳川家康

 

いきなりですが、歴史好きの方々は、いくらなんでも徳川家康(とくがわ いえやす
)
を怖がりすぎではないでしょうか?

 

家康のことが好きな人も、嫌いな人も、とにかく家康の事績については、「このときにこういう行動をとったのは、後にああいう行動に出るための周到な準備だったのだ」とみなしがち。

 

鳴かぬなら鳴くまでまとうホトトギス(徳川家康)

 

家康のやることなすことはすべてが計算されつくしていたと思いがちではないでしょうか。それゆえ、徳川家康の最晩年、関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)が終わってから大坂夏の陣までの約14年間についても、いろいろなことが言われます。

 

このとき家康はすでに当時の常識からしてかなり高齢で、いつ亡くなってもおかしくない老人でした。さっさと豊臣家を滅ぼさなければ寿命が尽きてしまうかもしれないのに、なぜこの時ばかりは、14年も豊臣家をそのままにしていたのでしょうか?

 

三国志を楽しく語るYASHIRO様

 

「実はこういう深い計略があった」とか、「陰でこういう企みを進めていた」とか、歴史ファンはいろいろなことを言います。ですが、今回の私としては、もっと単純な仮説を立ててみたいと思います。


日本史の他の武家政権交代期には起こり、江戸幕府の開府の際に起こらなかったこと

武田信玄と徳川家康

 

家康が14年動かなかったのは、何か深い陰謀を進めていたわけではなく、

「本当に数年がかりで待たないと解決しない事情があった」からだと考えてみましょう。

 

そもそも日本史上の、他の「武家の政権交代」の事例をみてください。

 

源義経 鎌倉時代

 

鎌倉幕府が滅んだのは、元寇(げんこう
)
でがんばった全国の武士たちに振る舞う土地がなかったからでした。

 

幕末軍服姿の西郷どん 西郷隆盛

 

明治政府が危機に陥ったのは、廃藩置県(はいはんちけん
)
であぶれた士族たちが続々と反乱を起こしたからでした。

 

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

それらの事例を見れば、徳川家康が新しい幕府を開こうとしたとき、全国でもっと反乱が頻発してもおかしくなかったはずです。なにせ、百年以上も続いた戦国の世の後に、

 

「戦国はもう終わり!明日から、俺が割り振った領土の中にみんなおさまって生きなさい」

 

と宣言するわけですから、猛反発がくるはずです。

合戦シーン(戦国時代の戦)

 

しかし、まさに関ヶ原の勝利から大坂の陣までの14年間、それほど大規模な内戦は起きませんでした。そして、大阪の陣の後も、江戸幕府は大きな反乱には悩ませられることはありませんでした(島原の乱(しまばらのらん
)
という例外はありますが)。

 

これはいったいどういうことなのか?

 

山に追放され亡くなる佐久間信盛

 

そう考えた時に、思い当たることがあります。現代の首相や大統領も、政権の安定を計測する指標としてビクビクしながら毎年チェックする数値、「失業者数」です。


関ヶ原の勝利から大阪の陣までの間は失業者対策期間だった!?

キングダムと三国志 信と曹操のはてな(疑問)

 

まさに関ケ原の乱が終わった直後、日本で起こったことは、なんでしょうか?

 

西軍に参加した諸大名が次々と領土を取り上げられたり、領土を縮小されたりしました。これによって大量の浪人が溢れたはずです。

 

「浪人」といいますが、現代でいう失業者です。

編集長kawauso日記02 kawausoさん

 

現代でも、不況や大企業の倒産などで、いっきに失業者が増えると、社会には大混乱が起こります。関ケ原後の日本も、そのような事態になっていたはずです。ところが、この時期にあふれ出た浪人たちは、何をしたのでしょうか?

 

真田丸 真田幸村

 

真田幸村(さなだ ゆきむら)後藤又兵衛(ごとう またべえ)が典型的なように、「いずれ徳川家を相手にまた戦う日まで力を温存しておくべきだ」と、地方にひっこんでしまいました。

 

金の亡者の豊臣秀吉

 

浪人たちがガマンして引っ込んでしまった理由は、豊臣家が健在だったからです。秀頼(ひでより)がまだ若く、大阪城も健在だった上に、秀吉が遺した莫大な財産もありました。豊臣家がその財産を使えば、全国に散った十万人以上の浪人を、いっきに雇い入れることも可能と言われていたはずです(実際、大阪の陣の軍資金は、豊臣家が持っていた膨大な財産で賄われました)。

 

この希望があったから、浪人たちはその夢にすがり、地方に散ってガマンをしていた。つまり、徳川家康にとっても、「豊臣家という浪人たちの希望がある」ことは必要だったのです。


その間に家康が必死にやっていた地味な政策

武田信玄と徳川家康

 

そしてこの14年間に、徳川家康は何をしていたのでしょうか?

 

思い当たるのは、江戸の開発です。いまでいう、公共事業です。今から見れば、これもまた「家康が京都を上回る大都市を建築するという遠大な計画を遂行していた」とされがちですが、もっと生々しい推測をするならば、「とにかく世の中に仕事をつくらないとマズイ!」という、ただの失業対策だったのではないでしょうか?

 

・武士としての再起にこだわる浪人は、豊臣家がいつか立つと信じてガマンを続ける

・武士としての再起をあきらめた浪人には、江戸にいけばいくらでも仕事がある

 

このような二分化を推し進めるための事業であったとしたら。

 

まだ漢王朝で消耗しているの? お金と札

 

そして経済政策の常として、一年や二年ではなかなか成果が見えません。

 

この時期の家康は、毎年のお正月に、

「どうだね、浪人の数は最近、少しは減ってきたかね?」

「はい、旅人や町人を襲うような輩の事件は、だいぶ減ってきたようです」

というようななまっぽい話を、地道にやっていたのではないでしょうか?


まとめ:大阪の陣は残った浪人の一網打尽作戦?

毛沢東(もうたくとう)

 

日本史上の他の政権のみならず、世界史上のさまざまな独裁者たちも悩んだ「失業者対策」。豊臣家を残すことで時間稼ぎをしながら、地道にこれを乗り切っていた家康。きわめて普通な「経済対策」をやっていたと仮定すると、この「ナゾの14年間」も、別にナゾでもなくなってくるのではないでしょうか。

【次のページに続きます】

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コメント

  • コメント (3)

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    • 匿名
    • 2020年 5月 06日

    同じく。浪人は由井正雪の乱あたりでようやく大名取り潰しがなくなって浪人が増えることに歯止めがかかったことから
    時代的にはあのころはまだ流動的な部分が大きかったんじゃないかと。実際の所、山岡荘八の小説の徳川家康のように
    「滅ぼすつもりは後が面倒であるためしたくなかったがどうしても時節が秀頼を担ぎ上げようとする者たちで大阪が沸き立ち
    乱を起こされる前にかたをつけなければならなくなった」のが実情なんじゃないかなぁ

    • シヴァ ヰ
    • 2020年 5月 04日

    関ヶ原で勝ったのも豊臣恩顧の西国大名が中心で、彼らはその後も健在でした。家康が彼らを警戒していたのはその後の城の配置等でも明らかです。その後徐々に改易とか普請とかで力と気を削いで行ったのです。これはほぼ通説です。通説を覆す試みは素晴らしいですが、失業対策だけでは弱いですね。

    • 縁故
    • 2020年 5月 04日

    単純に言えば空気読めるからでしょう。

    関ヶ原は家康VS三成にしたことで豊臣恩顧の武将を味方につける事ができたと、
    ゆえに三成は豊臣恩顧の武将を罵って裏切り者と叫んだ。

    14年待ち1人ずつ加藤や福島等を無力化して豊臣が蓄えている莫大な金を寺に寄進等で削ってようやく豊臣を滅ぼしても大名には逆らうものがいなくなるようにして始めて討伐を起こしたと言うことでしょう。

    浪人の事は江戸時代にも反乱であったので考慮はするがと思います。


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