諸葛亮の息子にして、滅亡の蜀で散っていった諸葛瞻。諸葛瞻について色々な評価がある、というよりも賛否両論と言ってしまう方が良いでしょう。歴史の先達者たちの評価を見ても彼の評価はまちまちです。今回は諸葛瞻の評価を見ていくと共に、彼の意思に付いて話してみたいと思います。
諸葛瞻の評価
まずは歴史の先達者たちの諸葛瞻の評価を見ていきましょう。
陳寿は諸葛瞻について、実力以上の名声を得ていた、と評価しています。また諸葛瞻は黄晧の専横には諸葛瞻の責任があるとも書き記しています。しかしこれは東晋が蜀地方を平定した際に「諸葛瞻によって陳寿は恥辱を受けたので、蜀漢の滅亡を黄晧のせいにしてこれを矯正できなかった諸葛瞻を非難するように史書に記した」という話もあり、やや陳寿の怨み補正も入っているようです。その他では国家を守り国に殉じたという忠の点で一定の評価を得ているのが諸葛瞻という人物です。
諸葛瞻が非難される理由
諸葛瞻が非難される理由の一つは、彼が黄皓と繋がりがあったということがあるでしょう。黄皓と繋がっていたのは姜維の北伐を止めさせたかったということもあり、黄晧と繋がることで姜維の北伐を止めさせる、というよりも姜維の位置を閻宇と入れ替えたかったようです。
ただしこの考えは姜維が警戒したことによって果たされないままでした。また姜維と対立しているということもあってか、諸葛瞻の扱いは三国志演義でもあまり良いとは言えません。
諸葛瞻の失策
諸葛瞻の失策の一つとして、鄧艾との一戦があります。鄧艾が攻め込んできた時に諸葛亮の息子として諸葛瞻は出陣するも、黄崇の進言を聞き入れないまま鄧艾の進軍を許し、初戦こそ鄧艾を破るもその後は大敗。
降ることはせず、最後は壮絶な戦死を遂げました。この最期の戦死に諸葛瞻の評価の殆どが込められていると言っても良いでしょう。
諸葛瞻は無能か?
さて諸葛瞻のこの失策から「無能」という評価をされることもありますが、筆者は失策を行いはしたが、これだけでは完全に無能とは言い切れない、と思っています。末期の蜀の、それも味方との連携も上手く取れない中で、初陣、それも相手が鄧艾。
ここまで来て上手い指揮が取れる人間もそうそういないでしょう。また諸葛亮の息子と言えど、諸葛瞻は晩年にできた子でもあるので父親からの薫陶というものは受けていなかったはずです。諸葛瞻は軍事に関して知識も経験も足りなかった人物と言うのが実情ではないでしょうか。
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