歴史で早く亡くなってしまった人について「もしも」を考えるのは良くあることです。今回はそんな「もしも」の中から孫策の許都攻略計画についてお話をしたいと思います。
良く言われているこの話ですが「孫策が生きていれば許都攻略計画によって曹操が敗北し、孫策の天下もあったかもしれない」というもの。果たしてこの計画はどんなものか、そしてこの計画が上手くいっていたら?いく可能性は?
これらについて考えていきましょう。
この記事の目次
孫策の許都攻略計画
さてまずは孫策の許都攻略計画についてもう少しお話しましょう。孫策は三国志の中でも早逝した人物です。彼は200年4月に長江付近で許貢の残党に襲われ、その傷が元で亡くなりました。享年は26歳、何とも早すぎる死です。
この際に孫策は曹操の本拠地である許昌攻略をめざし北上している途中であり、この時期に曹操は袁紹と対立、後世に官渡の戦いと呼ばれる大決戦中です。
そしてこの際に背後を突かれる形になっていれば、孫策が許都攻略し、曹操の天下ではなく孫策の天下もあったのではないか……とも言われることがあります。果たしてこれは有り得たのでしょうか?
孫策の計画は本当にあったのか?
まず気になるところですが、この孫策の計画は本当にあったのでしょうか?
一応この件に関しては三国志にて「孫策は曹操と袁紹の戦っているすきを狙って曹操の本拠地である許昌攻略を狙った」とありますが、呂布伝の注に引かれている先賢行状では、徐州に攻め込むまではいったけれど、陳登が撃退したと記されています。
つまり正史を見ると孫策は曹操と袁紹の隙を付いて曹操を討つつもりであったと思われるのですが、この件に関しては否定説もあるので判断が難しくもあるのです。
裴松之や孫盛による否定説
この否定説を挙げているのが裴松之や孫盛。彼らによれば、孫策の本当の標的は曹操の許都ではなく、長江流域で非常に人望が厚かった人物である陳登だったと言います。
また孫策の死に関してですが、この死についても陳登が関わっていたとも言うのです。孫策は許貢の残党に襲われてその傷が元でこの世を去ることになりますが、この残党たちを先導したのが陳登。そして孫策は企み通り傷を負い、その覇道も終焉を迎えた……結果として曹操は助かった……となる訳ですね。
陳登という人物に付いて
ここで少し陳登について触れておきましょう。陳登は徐州の太守であった陶謙に父親と共に仕えていました。しかしこの徐州、三国志において主がころころ変わることでも有名な土地です。
最初は曹操の父が徐州で殺されたことがきっかけで曹操が攻め込みますが、曹操は呂布に背後を取られそうになったことで難を逃れ、この時病没した陶謙は後継者に劉備を指名します。
しかし劉備がその後に招き入れた呂布が徐州を支配下に置き、陳登親子は呂布に従うこととなります。
この後、陳登は弟を人質にされるも曹操と手を結んで呂布を除き、広陵太守となった所に劉備が帰宅。が、やっぱり曹操に奪い返されるといったように支配者の変化が激しい土地でしたが、その土地でずっと陳登は有力者として存在し続けました。
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