馬超と言えば曹操に家族を殺され、その復讐に身を捧げるも上手くいかず、最終的に蜀に己の居場所を見出した後に五虎将軍に任命されたイケメン武将……というのは、三国志演義での補正が大きいイメージです。
実際に正史の方で馬超を見ていくと、その功績に謎があるという人も多いでしょう。しかし実際に、馬超のその功績が活かされたのは死後だった!?ということで、今回は馬超の功績について話していくと致しましょう。
馬超のルーツ
馬超の父親は馬騰といい、馬超は馬騰の長男です。この馬騰は馬家の子でありながら、羌人の血も引いている人物でした。というのも馬騰の父親が家が貧しいために妻が娶れなかったために、羌人の娘さんを娶って跡継ぎを作ったとされているからです。
異民族の血を取り込んだからか、馬騰は体格が良かったそうです。またこのためか馬超の容貌も良く、三国志演義などでも偉丈夫に描かれることが多いですね。
羌人とは?
ここで少し羌人、羌族について少し説明しておきましょう。羌族とは遥か古代から中国西北部に住んでいる民族のことで、西の方に住んでいたために西羌とも呼ばれます。
現在も中国の少数民族である、チャン族として存在している民族たちですが、漢の時代には度々叛乱を起こして討伐されることがありました。ただし馬騰は自身が羌族の血を引いていることもあり、彼らと手を組んで独自の軍閥を作るなどしていたそうです。
馬超の活躍と功績
さて馬超のルーツじゃなくて功績や活躍を話してくれ、とじれったく思っている人たちもいることでしょう。しかし正史を追っていくと馬超は実は蜀に訪れるまで活躍らしい活躍はなく、蜀でも功績と言える功績の記録は残されていません。
敢えて言うならば左遷されて謀反を企んだボウヨウを密告し、謀反を未然に防いだ功績が残っているとも言えるでしょうか。その後馬超は病気でこの世を去ってしまいますが……実はそれよりも後から馬超の功績が見ることができる場面があるのです。
諸葛亮伝にある北伐の記述の中から・・・
さてその馬超の功績の前に少し諸葛亮伝を見ていきましょう。諸葛亮伝による第三次北伐後の詔勅に「諸葛亮は羌を降伏させて二郡を回復させた」という文章があります。とはいえ西羌は独自の文化を持っている異民族でもあるので、魏とも蜀とも対立したりしていました。
しかしその西羌と結ぶことで諸葛亮は北伐の通り道とし、魏への対抗策としたのだと思われます。この際におそらく諸葛亮は馬超の羌族の血筋であることを利用したのではないか……と筆者は思っています。
遺言でも馬超は一族の生き残りである馬岱のことを頼んでいたので、その事も踏まえてここで西羌を取り込むことで魏への対抗手段とした、とするならば馬超の死後、その血筋が功績を残したと言えるのではないでしょうか?
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