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羌の立場
ここで羌についてもう少しだけご説明を。この時代、馬騰が殺され、馬超たちも国から離れたこともあってか羌族は魏と手を組んだり、蜀と手を組んだりしていたようです。
実際に郭淮伝を見てみると、ここでは「郭淮が羌を帰順させた」というように記述されたりしています。なので実は馬超がいたからと言って完全に蜀の味方、という訳ではなかったみたいですね。
そう考えると馬超がいたから味方をしてくれた、馬超の功績……とは言いにくいかもしれませんが、説得や交渉のアイテムとして馬超の存在があったことを個人的には期待したいですね。筆者はそういった異民族との繋がりこそ馬超の蜀への大きな功績だと思っています。
馬超のイメージである「馬」
さて馬超のイメージとして馬術が上手い、というものがある気がします。これは実はそこまで外れたイメージではありません。羌族は元々遊牧民であり、馬の扱いには長けていたようです。
また西涼の方は土地が広く、開けている牧草地帯ということもあって良い馬が育てやすいこともあり、そういった面から馬超は良く馬に親しんでいたと思われます。これらから馬超が騎兵のイメージが付いたのではないでしょうか。
実は馬超よりも・・・?
最後に少し小話を。蜀、というか劉備陣営に孫乾という人物がいます。彼は元々は陶謙に仕えていましたが、劉備の元に移籍してからは袁紹と交渉したり、関羽を励まして千里行を遂げさせたり、主に外交官として働いていた「武官」です。
彼は位的には全軍第四位であり、実は馬超(と黄忠)よりも上の人物なのです。数々の外交功績を残した彼は治める土地すらなかった劉備を良く助けた存在でもあるのですが、三国志演義などを見ていて「あれ?」と思った人もいるでしょう、彼は入蜀後、急に出番がなくなります。
なんと孫乾は入蜀後に病死したこともあって、そこで歴史から姿を消してしまうからなのです。そんな孫乾ですが実は馬超よりも位が上……ということもあって、最後に紹介させて頂きました。
三国志ライター センのひとりごと
馬超の功績は振り返ってみると中々に難しいものがあります。北伐のことを踏まえるといるだけで助かった人物かもしれません。しかし馬超がそれだけの立場に甘んじれたかどうかは、分かりません。そう思うと悲哀も含んだ武将ですね、馬超は。
参考文献:蜀書馬超伝 ボウヨウ伝 諸葛亮伝 郭淮伝
参考記事:羌 wikipedia
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