
細川ガラシャは、本名を明智玉と言い天下の謀反人明智光秀の三女、或いは次女として永禄6年(1563年)越前国で生まれました。ガラシャは織田信長の命令により、明智家の与力だった細川家の嫡男細川忠興に輿入れしますが、本能寺の変で父が織田信長を討った事で全ては暗転。さらに父が謀反人として羽柴秀吉に討たれた為に、謀反人の娘として長期の軟禁生活の中で彼女が触れたのがキリスト教でした。
しかし、ガラシャが信仰を得た頃、日本では切支丹弾圧が表面化していました。そのような中でも決して信仰を捨てなかったガラシャの生涯について解説します。
この記事の目次
永禄6年越前国で誕生
細川ガラシャは、明智光秀と妻熙子との間に三女、或いは次女として誕生しました。当時の光秀は越前で牢人暮らしをしていて、生活は楽ではなかったようです。しかし、明智光秀は、細川藤孝と共に足利義昭を尾張・美濃の大名織田信長に引き合わせる事に成功し信長は義昭を奉じて上洛を果たし天下に号令します。
特に光秀は、京都の行政担当や比叡山延暦寺の焼き討ちや、丹波攻めなどで大きな功績を挙げて近江坂本・丹波の大名に昇格。盟友の細川藤孝も丹後を平定するなど功績があり、家臣団の引き締めを得たい織田信長は天正6年(1578年)8月主命によりガラシャと藤孝の嫡男忠興との縁組を決めました。
天正6年8月、ガラシャは勝竜寺城に輿入れ、二人の夫婦仲はよく天正7年には長女が翌8年には長男忠隆が誕生します。勝竜寺城で2年間を過ごした後、天正8年8月、忠興が丹後12万石を与えられ、丹後八幡城、次いで宮津城に移りました。
本能寺の変で人生が激変
しかし、細川忠興の妻として子供達の母としての幸せな生活は父、明智光秀の起こした本能寺の変で激変しました。明智家と懇意だった細川藤孝と忠興父子は光秀に同調せず、むしろ羽柴秀吉に与して明智光秀に敵対、光秀も山崎の戦いで秀吉に敗れ敗死します。
ガラシャは謀反人の娘となり、夫忠興の手で丹後国の三戸野に幽閉、長期の軟禁生活を強いられました。不自由な生活でガラシャの心の支えになったのは、結婚の時に父の光秀が付けてくれた小侍従や細川家の親戚筋の清原いとなどの侍女達でした。
通常、謀反人の娘となれば離婚になるのが普通ですが、ガラシャが明智家に戻されなかったのは明智家が滅んでいて存在しない事。もう一つは、細川藤孝にガラシャへの未練があり離婚に踏み切れなかったなど諸説があります。ただ、その後もガラシャと忠興の間には、子供が生まれているので、忠興がガラシャを嫌ったという事実はないのでしょう。
ガラシャキリスト教に出会う
天正12年(1584年)3月、信長の死後に天下の覇権を握った羽柴秀吉の取りなしで、忠興はガラシャを細川家の大坂屋敷に戻します。しかし、ガラシャと侍女には忠興の2人の家臣が付き、外出や外部者との会話は逐一監視・記録され、軟禁状態は続いている状態でした。
その頃まで、ガラシャは忠興の父と同じ禅宗を信仰していましたが、忠興が高山右近から聞いたカトリックの話をすると、その教えに心を惹かれて行ったそうです。天正14年、ガラシャは光千代(後の肥後藩主細川忠利)を産みますが、忠利は病弱でガラシャは常に心配していました。
翌、天正15年2月、夫の忠興が九州征伐に従軍すると、監視が緩んだのかガラシャは彼岸時期を利用して侍女数人に囲まれ身を隠してセミナリオ(教会)に行きます。その頃、セミナリオでは復活祭の説教をしていましたが、ガラシャは日本人のコスメ修道士に色々の質問をしたそうです。
ガラシャはキリスト教に感銘を受け、その場で洗礼を望みますがセミナリオでは、ガラシャの身分が高い事を怪しみ、後に問題になる事を恐れて、その場での洗礼は見合わせる事にしました。
間もなく、ガラシャの帰りが遅い事を察知した細川家の家臣がセミナリオでガラシャを見つけ駕籠で強引に迎えに来ました。セミナリオでは人を派遣して駕籠を尾行させ、ガラシャが細川家の奥方である事を知ったそうです。
ガラシャ受洗する
強引に連れ戻された事により、ガラシャが外出できる見込みは全くなくなりました。そこで、ガラシャは洗礼を受けないまま、侍女を通じてセミナリオとやりとりをして、送られた書物などを読む事で信仰に励んでいきます。
この頃にガラシャは、清原いとを初めとした侍女をセミナリオに向かわせて洗礼を受けさせています。しかし、その頃には九州にいた羽柴秀吉が最初の伴天連追放令を出すなど、国内のキリスト者への風あたりは強くなっていました。
大坂でも宣教師たちが九州に移動する事になり、ガラシャはイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで自邸で洗礼を受けた清原マリアから密かに受洗を受けてガラシャという名前を受けます。これはラテン語で神の恩寵を意味します。
九州から戻った忠興は、ガラシャが事もあろうにキリスト者になった事に激怒し、棄教を命じますがガラシャは頑として聞かず、ついに黙認する事になります。
ガラシャ忠興と別れたいと人生相談
強情なガラシャに忠興は辛く当たり、5人の側室を持つと言い出すなど夫婦仲は冷えていきます。これに対しガラシャは宣教師に「夫と別れたい」と告白したそうです。
あれ?カトリックでは簡単に離婚できないと思うのですが、この部分をガラシャはちゃんと読んでいなかったのでしょうか?洗礼まで受けたのに、ずいぶんおっちょこちょいな所がありますね。でも、書物を通じての理解ですから、離婚について欠落した部分があったのかも知れません。
事実、宣教師はガラシャに「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ徳は磨かれる」と説き思い留まらせています。ルイス・フロイスの書簡では、日本の女性は離婚に抵抗がなく再婚も当たり前と書かれていますが、ガラシャも、その意味では戦国時代の価値観で生きていた女性なんでしょうね。
西軍の人質になる事を拒否しボンバー死
慶長5年(1600年)7月16日、細川忠興は徳川家康に従い、上杉景勝討伐の為に会津に向かいます。その前に忠興は、もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば日本の習慣に従い、まず妻を殺し全員が切腹して我が妻と共に死ぬようにと命じていました。
細川忠興が出陣すると石田三成は、大阪玉造の細川屋敷にいたガラシャに人質になるように要求します。しかし、気丈なガラシャはこれを拒絶します。
翌日、三成は実力行使に出て細川屋敷を包囲、家臣から全てを聞いたガラシャは少し祈った後で、屋敷内の侍女と婦人を全員集めて「我が夫が命じている通り自分だけが死にたい」と彼女たちを外に出し、自殺を禁じたキリスト教に従い、家老の小笠原秀清がガラシャを介錯して殺し遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛けて火をつけてボンバーマンしてしまいます。
ガラシャの辞世の句は「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」37年の短い生涯でした。まるで松永弾正のようなボンバー死を遂げたガラシャに三成はビビり、人質を天守に集める事を無暗に拡大しなかったようです。
ガラシャの死の異説
しかし、ガラシャの自殺を禁じたキリスト教の戒律を守り家老に胸を槍で突かせたという話には異説があり、太田牛一の「関ヶ原御合戦双紙」蓬左文庫本には、ガラシャが自ら胸を刺したとあり、河村文庫本ではさらに10歳の男児と8歳の女児を刺殺した後に自害したとあるようです。
同時代の「言経卿記」慶長5年7月18日条にも「大坂にて長岡越中守(細川忠興)女房衆自害。同息子十二才・同妹六才ら母切り殺し刺し殺すなりと云々」とありガラシャが子供達2人を手に掛けて自害したと読める史料があり、さらに、侍女らが全員脱出したとの点に関しても慶長見聞集には「御内儀並び子息2人、供の女三人自害」とあり小笠原秀清以外にも殉死者がいたとの噂は広がっていました。
でも、離婚がカトリックではタブーだとガラシャが知らなかった点や、通信教育でキリスト教を学んだ点を見ると、極限状態ではガラシャが教え込まれて身についた武士の娘としての作法で死を選んだ可能性もなくはないとkawausoは思います。
どうしてガラシャはキリスト教を信仰したのか?
離婚のタブーをしらなかったり、自殺したという異説もあるなど、おっちょこキリスト者な細川ガラシャですが、彼女はどうしてキリスト教の洗礼を受けたのでしょうか?
天正16年(1588年)2月にガラシャが有馬から大坂の修道長セスペデスに宛てた手紙には以下のようにあります。
武田が昨日朝、当地に参り、伴天連様、いるまん様方御動静を拝聞致しました。
喜びに堪えないことでございますが、とりわけ皆様全員が日本を御退却なさるものではないことを承り、私にとっても本当に喜びに堪えません。これによって、私も心に力を得て、いずれは当地方にもお戻りになり、御面接を賜ることもあろうかと希望を新たにしました。
私のことについては、伴天連様がご存知のごとく切支丹となりましたのは人に説得されての事ではなく、ただ全能の天主の恩寵により、私自らがそれを見出してのことであります。
たとえ、天が地に落ち、草木が枯れ果てても、私が天主から得た信仰は決して変わる事がありません。
以下略
こうしてみると、ガラシャは人に勧められたのではなく、己の意志でキリスト者になろうと決意したようです。元々、キリスト者になる前のガラシャは、気位が高く気性の激しい性格だったのが、キリスト教の教えに出会ってからは、忍耐強く、謙虚で穏やかな性格に変化したそうです。ガラシャにとってのキリスト教は、それまでの性格を一変させるほどにインパクトがあったわけで、彼女が棄教しなかったのは無理もない事かも知れません。
戦国時代ライターkawausoの独り言
ガラシャの死から数時間後、宣教師オルガンティノは細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬りました。
細川忠興はガラシャの死を悲しみ、慶長6年(1601年)にオルガンティノにガラシャの教会葬を依頼して葬儀にも参列、後に遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬したそうです。
キリスト者としての妻や侍女たちに過酷に対処した忠興ですが、ガラシャが死んでしまって誰にも妻を憚る事がなくなり、初めて悲しみが溢れてきたのでしょうか?
文章:kawauso
参考文献:宣教師フロイスが記した明智光秀と細川ガラシャ
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