何者かに毒を盛られケツから血をビュバーして死んでしまった悼襄王ですが、最後の最期で強烈な最期屁をかましていました。なんと後継者であった公子嘉を簡単に廃して、末っ子でオフ王に似た性癖を持つ公子遷を後継者に指名していたのです。
こうして趙は、武霊王、恵文王の2代で隆盛した国力を、孝成王、悼襄王、幽穆王の3代のバカ王で食い潰し滅亡に突き進んでいくのでした。しかし、どこの国でも見られたバカ王は、何故か秦には登場せず、歴代国王は着々と国力をつけて始皇帝の統一まで進んでいきました。でも、これは一体、どうしてなのでしょう?
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どうしてバカ王が出てくるのか?
どれほどの名宰相、名将が続出しても、上に立つ王がアホならどうしようもないというのは王翦に言われるまでもなく階級制度が存在した時代の真実です。
宰相以下は、時として乞食からでも能力があれば選抜されますが、王族は王との血縁が第一条件なので、バカでも王族に生まれれば、それなりに富貴な地位に就けました。
さらに、そのようなバカが王の後継者になってしまうと、ろくに能力もないバカ王が誕生し、賢臣を遠ざけて佞臣を近づけるようになり、努力が蔑ろにされ、おべんちゃらが幅を利かせるようになり、国が傾いてしまうのです。これは、キングダムの趙の歴史を観てみるとそのまんまでしょう。
王族でも遊んでいられない秦
しかし秦では、遊んで暮らせるボンクラ王が存在できないようになっていました。
それを実行したのが、商君の変法で知られる公孫軮で、彼は秦を実力主義の国にすべく、上から下まですべての人民に対して、功績があれば評価すると宣言し、生まれつき何もする必要がない王族に対しても、国家に対して貢献がないなら爵位を引き下げるとしたのです。
これにより、秦では王族であっても遊んで暮らす事が出来なくなりました。始皇帝の異母弟の長安君成蟜は、軍を率いて趙を攻撃し屯留を落としていますが、これは手柄なしには王族の地位を維持できない事による軍事行動でした。
逆に言うと、手柄がないバカな王族や無能な王族は、王族の地位を失い、王位継承レースから自然に脱落する事になります。これにより無能な暗君は、そもそも王になる可能性も断たれる結果になったのです。
一番偉いのは王ではなく法
しかし、成果主義により無能な暗君の出現を排除できても、世の中には商の紂王のような有能な暴君というのも存在します。このような連中は、能力があるので王位継承レースから脱落せずに、結果的に王に即位して私利私欲まみれの政治をして国を傾けてしまうリスクがあります。
ところが、秦の場合には、王でさえも拘束する存在がありました。はい、それが法です。
コロナ禍の問題でも出て来たように日本人は法よりも情緒で動いてしまい、自粛に従わない人間をバッシングする自粛警察などの存在が問題になりましたが、大陸で法は命よりも優先される存在でした。したがって暴君でも法を無視した振る舞いを許されず、渋々でも法の制限内で動くしかなかったのです。
秦王政を守らなかった法
命よりも大事な法というと、日本人には信じがたいですが、秦王政自体が秦の法律のせいで危うく殺害されかけた事があります。秦の王の間では、もちろん兵士が帯剣して立っていましたが、この剣は王のいる一段高い壇上に持ってあがる事が禁止されていました。
しかし、ある時、燕からやってきた暗殺者の荊軻が地図に隠し持った匕首で政を襲った時、秦王政は仰天の余り殿下に下りる事も出来ずに逃げ惑います。政は腰に長剣を帯びていたものの、長すぎるのと慌てている事で抜けませんでした。
秦以外の王宮なら独自判断で剣を抜いて荊軻を斬殺するでしょうが秦では出来ません。それが、どんな結果をもたらすにせよ、秦の兵に要求されるのは法を犯さない事です。やむなく群臣は、剣を捨てて素手で荊軻を捕えようと奮闘するという滑稽な事が起きました。この非常時に何をバカなと思うでしょうが、法に例外はないのです。
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