日本史上には、様々な征夷大将軍が存在しますが、その中にくじ引きで選ばれたという何だかいい加減な将軍がいます。室町幕府の6代将軍足利義教がそうで、兄の足利義持が頑なに後継者を決めないまま死んだので、神様の意志でという理由で多くの候補者から選ばれました。でも、どうやら神様も失敗したようで義教は室町時代の恐怖の大王として、万人恐怖と恐れられる独裁者になるのです。
この記事の目次
足利義満の子として生まれ仏門へ
足利義教は応永元年(1394年)6月13日、将軍足利義満の子として誕生しました。幼名は春寅です。しかし、義教は義満晩年の子で将軍職は兄の義持が継いでいたので、イザコザを防ぐ為、当時の慣習で仏門に入る事になり応永10年、10歳で青蓮院に入室。以後ゴタゴタはあったものの、応永15年に得度して僧侶になり義円と名乗りました。
僧侶としての義教は非常に優秀で、応永26年には、153代の天台座主となり、一時は大僧正も務めます。
遺言を拒否した義持のお陰でくじ引き将軍誕生
しかし、このまま天台宗座主として一生を終わる予定の義円の運命は大きく変わります。応永32年、隠居した足利義持の子として5代将軍になった足利義量が病死、さらに3年後には義持も病に倒れます。
しかし危篤に陥っても義持は重臣たちに後継者を遺言しませんでした。理由は色々ありますが、義持は父の義満が生きている間は将軍といえども名ばかりで重臣が義満の意向しか聞かないので「遺言してもどうせ守るまい」と達観していたようです。
そこで、重臣達は対応を協議し石清水八幡宮で義円を含めた4人で籤を引き、義持が死んでから結果を公表すると決めました。やがて義持が病死したので重臣が籤を確かめると、そこには義円の名前があり、ここに「くじ引き将軍」足利義教が誕生するのです。
将軍宣下が下りず、義教は劣等感に苛まれる
将軍が決まった以上、一刻も早く即位させたい幕府ですが、前代未聞のくじ引き将軍に朝廷も慎重でした。そもそも、義円は子供の頃に出家したので無位無官で、出家したものが将軍になったという前例もありません。
万事に前例踏襲主義の朝廷は、義円の将軍就任をなかなか許さずに幕府と揉めた上、坊主頭の義円の頭に髪が生えて還俗(俗人に返る)が出来るまで待つという妥協案が出ます。
応永32年3月12日、ようやく髪が生えた義円は還俗して義宣と名乗り従五位下左馬頭に、さらに従四位に昇進しますが将軍宣下はありませんでした。これを受けて、鎌倉公方の足利持氏が将軍となるという噂が京都を出回り、不穏な空気が流れます。
将軍に任命されない、鎌倉公方に不穏な動きがあるとゴタゴタの連続で、くじ引き将軍、義宣は、いたくプライドを傷つけられ、気分を変えようと元号は正長に替わります。しかし、まともな将軍ではないという負い目は権力に執着する恐怖の大王の性格を産み出しました。
祖父義満に憧れ将軍権力の強化を図る義教
ようやく正長2年(1429年)3月15日に義宣は義教と改名して参議近衛中将に昇ってから征夷大将軍になります。こうしてようやく一人前の将軍になった義教は、兄義持の長い治世のうちに失墜した幕府の権威を復興し将軍親政を実現させようと動きます。
その手本は、兄の義持ではなく室町幕府の黄金時代を築いた父の義満であり、義満時代の儀礼を復活させ、天皇の皇位継承問題に口を挟みました。
例えば、次第に将軍から管領などに移転した権限を回復する為に、家柄と身分が固定された行政組織である評定衆や引付に代わり、御前沙汰を設置して参加者を選び将軍が臨席する協議機関を制定したり、諸大名への訪問を管領ではなく将軍自ら行ったり、義持の時代で途絶えていた勘合貿易を再開したりしています。
また訴訟では、お湯の中に手を突っ込んだり、くじ引きで判断を下すなど神意を利用した裁定をしていますが、これは義教が自身も神に選ばれた人間であると、くじ引き将軍をポジティブにとらえた為であるとも考えられています。
それ以外にも、守護の軍事力に依存していた事を改め、将軍直轄の奉公衆を再編して独自軍事力を強化。さらには、有力守護大名の後継者問題に口を挟むなど、後の暗殺の伏線になる行動を繰り返しています。
くじ引き将軍、足利義教の政策は、どれひとつとして穏便に済むものではなく各地で烈しい衝突を起こしていくのです。
【次のページに続きます】