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この記事の目次
古巣延暦寺とバトル
元々天台座主であった義教は、自分が還俗した後で弟の義承を天台座主に送り込んで延暦寺の取り込みを図ります。しかし延暦寺は義教のいいなりにはならず、幕府の山門奉行や光聚院猷秀らに不正があったとして弾劾しました。
義教は延暦寺の態度を自身への反逆と捉え、討伐を考えていましたが、管領細川持之等が融和策を唱えたので断念し延暦寺の言い分を入れて奉行飯尾為種や光聚院猷秀を流罪にします。ところが義教をへこませて調子こいた延暦寺は、訴訟に同調しなかった園城寺を焼き討ちします。(こいつら本当に坊主か?)
怒った義教は、自ら兵を率いて園城寺の僧兵と共に比叡山を包囲、これで延暦寺は不利を悟り一度は和睦が成立します。
信長も顔負けの恐怖の大王
しかし、永享6年(1434年)7月、延暦寺が鎌倉公方の足利持氏と通謀して義教を呪詛しているという噂が流れます。これにも義教は即座に反応し、近江守護の京極高吉、六角満綱に命じて、近江国内に多くあった延暦寺領を抑えて兵糧攻めにします。
さらに、義教は比叡山の門前町の坂本の民家に火をかけ、住民が逃げ惑う大騒ぎになりました。仏を恐れぬ義教にさしもの比叡山も恐れを為し、また和睦を申し込みますが、義教は許さず幕府宿老が強硬に諫めて渋々赦免し陣を解きました。
ところが、義教は本心では許しておらず、延暦寺の使僧4名を京都に呼び出してそのまま殺害。この騙し討ちに延暦寺は抗議し、24名が焼身自殺する事態になり、京都の民衆も混乱しますが義教は、「延暦寺についてガタガタ言うヤツは斬罪」と法律を出して口封じしました。
足利義教は、織田信長以前に延暦寺に恐れられた大魔王と言えるでしょう。
鎌倉公方とのバトル
関東守護大名の抑えである鎌倉公方の足利持氏は自分が僧籍に入っていないことから、義持没後には将軍に就任できると信じていました。足利持氏の家系は2代将軍足利義詮の息子で義満とは兄弟。足利義持と系統は同じだったからです。
しかし、掟破りのウルトラCで義教が将軍に就任したので、野望は潰え、持氏は義教を「還俗将軍」と呼び恨んでいました。さらに持氏は、比叡山の呪詛問題、それに永享10年(1438年)には嫡子足利義久の元服の際に義教の「教」の一字を無視して名前を付ける等、当てつけのような事をしたので、義教との対立は避けられなくなります。
こんな頃に、持氏を諌めていた関東管領上杉憲実が疎まれ領国の上野国に逃亡し、足利持氏の討伐を受けるに至りました。
足利義教は好機と見て憲実と結び、関東の諸大名に持氏包囲網を結成させ、関東討伐に至ります。持氏は大敗して剃髪、恭順の姿勢を示しましたが、義教は憲実の助命嘆願にもかかわらず持氏一族を殺害しました。この情け容赦のなさに義教の周辺も明日は我が身と危機意識を強めていきます。
大きな権力でやりたい放題の義教
永享12年(1440年)3月、逃亡していた足利持氏の遺児、春王丸と安王丸が結城氏朝に担がれて叛乱を起こしました。いわゆる結城合戦です。
これに対し、義教は上杉憲実に討伐を命じますが、関東諸将の頑強な反抗に遭ったので、力攻めから兵糧攻めに切り替え、翌年の嘉吉元年4月には鎮圧されました。捕らえられた春王と安王は京都への護送途中で斬られています。
同年、義教は日向国に潜伏していた異母弟で反乱を起こした大覚寺義昭を薩摩守護の島津忠国に命じて討たせて始末します。さらに義教は、斯波氏、山名氏、京極氏、富樫氏、畠山氏、今川氏など有力守護大名の家督継承に積極的に干渉、意に反した守護大名、一色義貫と土岐持頼は大和出陣中に誅殺されています。
両氏の所領は義教の近習に分配されますが、これは守護大名の勢力均衡を狙うもので、父の足利義満もしていた事です。ただ、義教は、情け容赦がなさ過ぎて守護大名に強い恐怖を与えました。
恐怖の大王暗殺される
永享9年(1437年)頃から、京都では赤松満祐が将軍に討たれるという噂が流れていました。それは根拠のない話ではなく永享12年(1440年)義教は満祐の弟、赤松義雅の所領を没収してその一部を義教が重用する赤松氏分家の赤松貞村に与えています。
義教は、以前が以前ですから満祐が恐怖心を感じたのは無理もありません。
危機意識を持った満祐の息子の赤松教康は、鴨の子が多数出来したことや、結城合戦に勝利した事の祝いで義教の「御成」を願いました。御成とは、守護大名が慶事に将軍を呼んで歓待する行事で将軍権威を見せつける行事なので、義教は大いに喜んで大名や公家を引き連れて赤松邸に入り猿楽を鑑賞していました。
もちろん、これは罠であり、突如として屋敷に馬が飛び込み全ての門が閉じられると、障子が開き鎧兜で武装した武者が出現し、赤松家一の武士、安積行秀が義教の首を刎ねました。恐怖の大王と化した足利義教は部下の守護大名の手により、呆気なく48歳の生涯を閉じたのです。
義教の死後は、幼少の足利義勝が継ぎますがすぐに病死。以後、室町将軍は絶対権力を奮う事なく没落していきます。
室町時代ライターkawausoの独り言
足利義教は、実に些細な事で人を処罰したようです。
ある時は、部下が儀式の途中にニッコリ笑っただけで自分を笑ったと激怒して所領没収。闘鶏の行列で自分が通れないと癇癪を起し鶏を全て京都の外に追放。酌の仕方がマズいだけで侍女を激しく殴り髪を切って尼にし、義教に説教した日蓮宗の僧侶は、焼けた鍋を頭に被せ、二度としゃべれないように舌を切断したりしています。
被害は公卿から庶民に到り100名以上で、庶民は「万人恐怖」と呼んで恐れました。神意が選んだはずのくじ引き将軍は皮肉にも、恐怖の大王になってしまったのです。
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