くじ引きで選ばれた室町時代の将軍「足利義教」は恐怖の大王だった!

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

足利義教

 

日本史上には、様々な征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)が存在しますが、その中にくじ引きで選ばれたという何だかいい加減な将軍がいます。室町幕府の6代将軍足利義教(あしかがよしのり)がそうで、兄の足利義持(あしかがよしもち)(かたく)なに後継者を決めないまま死んだので、神様の意志でという理由で多くの候補者から選ばれました。でも、どうやら神様も失敗したようで義教は室町時代の恐怖の大王として、万人恐怖(まんにんきょうふ)と恐れられる独裁者になるのです。

足利義満の子として生まれ仏門へ

 

足利義教は応永(おうえい)元年(1394年)6月13日、将軍足利義満(あしかがよしみつ)の子として誕生しました。幼名は春寅(はるとら)です。しかし、義教は義満晩年の子で将軍職は兄の義持が継いでいたので、イザコザを防ぐ為、当時の慣習で仏門に入る事になり応永10年、10歳で青蓮院(しょうれんいん)に入室。以後ゴタゴタはあったものの、応永15年に得度(とくど)して僧侶になり義円(ぎえん)と名乗りました。

西遊記はどうやって出来たの?三蔵法師編

 

僧侶としての義教は非常に優秀で、応永26年には、153代の天台座主(てんだいざす)となり、一時は大僧正も務めます。

遺言を拒否した義持のお陰でくじ引き将軍誕生

足利義持

 

しかし、このまま天台宗座主として一生を終わる予定の義円の運命は大きく変わります。応永32年、隠居した足利義持の子として5代将軍になった足利義量が病死、さらに3年後には義持も病に倒れます。

 

後継者を決めないまま病死する足利義持

 

しかし危篤に陥っても義持は重臣たちに後継者を遺言(ゆいごん)しませんでした。理由は色々ありますが、義持は父の義満が生きている間は将軍といえども名ばかりで重臣が義満の意向しか聞かないので「遺言してもどうせ守るまい」と達観していたようです。

 

そこで、重臣達は対応を協議し石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)で義円を含めた4人で(くじ)を引き、義持が死んでから結果を公表すると決めました。やがて義持が病死したので重臣が籤を確かめると、そこには義円の名前があり、ここに「くじ引き将軍」足利義教が誕生するのです。

 

幕末のおじゃるズ公家
公家


将軍宣下が下りず、義教は劣等感に苛まれる

くじ引きで将軍となった足利義教

 

将軍が決まった以上、一刻も早く即位させたい幕府ですが、前代未聞のくじ引き将軍に朝廷も慎重でした。そもそも、義円は子供の頃に出家したので無位無官で、出家したものが将軍になったという前例もありません。

 

騒いでいる公家

 

万事に前例踏襲主義の朝廷は、義円の将軍就任をなかなか許さずに幕府と揉めた上、坊主頭の義円の頭に髪が生えて還俗(俗人に返る)が出来るまで待つという妥協案が出ます。

京都御所

 

応永32年3月12日、ようやく髪が生えた義円は還俗(げんぞく)して義宣(よしのぶ)と名乗り従五位下左馬頭(じゅごいげさまのかみ)に、さらに従四位(じゅしい)に昇進しますが将軍宣下(しょうぐんせんげ)はありませんでした。これを受けて、鎌倉公方(かまくらくぼう)足利持氏(あしかがもちうじ)が将軍となるという噂が京都を出回り、不穏な空気が流れます。

憤死する麋竺(モブ)

 

将軍に任命されない、鎌倉公方に不穏な動きがあるとゴタゴタの連続で、くじ引き将軍、義宣は、いたくプライドを傷つけられ、気分を変えようと元号は正長に替わります。しかし、まともな将軍ではないという負い目は権力に執着する恐怖の大王の性格を産み出しました。


祖父義満に憧れ将軍権力の強化を図る義教

軍議(日本史)モブb

 

ようやく正長(しょうちょう)2年(1429年)3月15日に義宣は義教と改名して参議近衛中将(さんぎこのえちゅうじょう)に昇ってから征夷大将軍になります。こうしてようやく一人前の将軍になった義教は、兄義持の長い治世のうちに失墜した幕府の権威を復興し将軍親政を実現させようと動きます。

幕末70-8_天皇(シルエット)

 

その手本は、兄の義持ではなく室町幕府の黄金時代を築いた父の義満であり、義満時代の儀礼を復活させ、天皇の皇位継承問題に口を挟みました。

鉄甲船

 

例えば、次第に将軍から管領(かんれい)などに移転した権限を回復する為に、家柄と身分が固定された行政組織である評定衆(ひょうじょうしゅう)引付(ひきつけ)に代わり、御前沙汰(ごぜんさた)を設置して参加者を選び将軍が臨席する協議機関を制定したり、諸大名への訪問を管領ではなく将軍自ら行ったり、義持の時代で途絶えていた勘合貿易(かんごうぼうえき)を再開したりしています。

 

また訴訟では、お湯の中に手を突っ込んだり、くじ引きで判断を下すなど神意を利用した裁定をしていますが、これは義教が自身も神に選ばれた人間であると、くじ引き将軍をポジティブにとらえた為であるとも考えられています。

足軽a-モブ(兵士)

 

それ以外にも、守護の軍事力に依存していた事を改め、将軍直轄の奉公衆(ほうこうしゅう)を再編して独自軍事力を強化。さらには、有力守護大名の後継者問題に口を挟むなど、後の暗殺の伏線になる行動を繰り返しています。

 

くじ引き将軍、足利義教の政策は、どれひとつとして穏便に済むものではなく各地で烈しい衝突を起こしていくのです。

【次のページに続きます】

次のページへ >

1

2>

関連記事

  1. 中国地方を制覇する毛利元就
  2. 真田丸 武田信玄
  3. 武田信玄と徳川家康
  4. 明智光秀(麒麟がくる)
  5. 傾奇者だけどエリートな前田慶次(前田利益)

コメント

  • コメント (0)

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。




はじめての三国志企画集

“はじめての三国志企画特集"

“はじめての三国志倶楽部

“濡須口の戦い

“赤壁の戦い

“公孫瓚

“はじめての三国志公式LINEアカウント"

“光武帝

“三国志データベース"

“三国志人物事典

鍾会の乱

八王の乱

“はじめての三国志公式LINEアカウント"




PAGE TOP