【麒麟がくる】足利将軍は無力ではない?最高裁だった室町幕府


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京都御所

 

「麒麟(きりん)がくる第11話では、知多半島を巡る今川義元(いまがわよしもと)織田信秀(おだのぶひで)の衝突を、明智光秀(あけちみつひで)足利義輝(あしかがよしてる)に頼む事で停止させるという話が描かれます。足利義輝が今川義元と織田信秀の争いを調停した話は虚構だと思いますが、実は当時の室町幕府はそこまで無力ではなく、戦国時代の訴訟を多く解決した最高裁のような役割を果たしていた事が近年の研究でわかってきたのです。


今でも残る一千点の判決文

西遊記巻物 書物

 

戦国時代においても、将軍の下には京都やその周辺部の当時の日本でもっとも繁栄した地域の人々や団体から多種多様な訴訟が持ち込まれ、足利将軍は側近衆や奉行衆に補佐されつつ自ら、御前沙汰(ごぜんさた)と呼ばれる裁判を行っていました。

 

当時の判決文である「幕府奉行人奉書(ばくふぶぎょうにんほうしょ))」は、今日現存するだけでも一千点もあります。天下人になった織田信長の発給文書が現存800点である事を考えると、足利将軍の発給文書がいかに膨大かわかります。もちろん失われた文書は、この十倍から百倍と考えられ、1万から10万の判決文が当時の近畿を飛び交っていた事になります。

 

当時も今も庶民は現金なものですから、効果がない判決文など欲しがりません。つまり、千点もの判決文は当時の室町幕府が、多くの人々に影響力を持ち、頼りにされていた裏返しなのです。


事務官僚奉行衆

軍議(日本史)モブa

 

当時、足利将軍を補佐して裁判を行ったのは、奉行衆と評定衆でした。奉行衆とは、飯尾(いのお)松田(まつだ)布施(ふせ)諏方(すわ)(せい)という特定の家柄から輩出される事務官僚です。彼ら奉行衆は、20名前後いて各家に蓄積された法的知識を駆使して、将軍の下に持ち込まれた訴訟を審理し、将軍の上意を受けて幕府奉行人奉書を作成・発給しました。

 

奉行衆は基本的に裁判に関わる訴訟の事務手続きをするだけで、判決を左右する権限はありませんでしたが、彼らは将軍からの諮問を受けて「意見」と呼ばれる見解を将軍に上申できました。そして奉行衆から意見を求めた時には、将軍は意見に沿う判決を下すべしとされ、この場合には奉行衆の意見が判決を左右する事もあったのです。

 

【信長を討った明智光秀の波乱の生涯】
麒麟がくる


将軍のお友達評定衆

清須会議a 丹羽長秀、羽柴秀吉、柴田勝家、池田恒興

 

もうひとつ判決に影響を与えた勢力が評定衆です。評定衆は奉行衆とは違い、時々の将軍と個人的な信頼で結びついた有力者です。元々、足利将軍の政治は、細川(ほそかわ)斯波(しば)畠山(はたけやま)山名(やまな)のような京都に詰めた有力守護大名と力のバランスを取りながら行う調整型政治で、そこに新しいバランスをもたらすような、将軍のお気に入りの評定衆が入る余地はありませんでした。

 

ところが応仁の乱が起きて、戦乱が全国に飛び火すると守護大名は領地が気になり京都から去り、将軍のコントロールから抜けてしまいます。しかし、逆に足利将軍も京都詰めの守護大名が去った事で京都支配力が強化され、評定衆と言う自分のお気に入りを登用できるようになったのです。

 

このような評定衆には、十代将軍、足利義稙(あしかがよしたね)に仕えた畠山順光(はたけやまじゅんこう)種村視久(たねむらともひさ)阿野季綱(あのすえつな)、十二代将軍、足利義晴(あしかがよしはる)に仕えた大館常興(おおだちつねおき)、大館晴光(はるみつ)細川高久(ほそかわたかひさ)摂津元造(せっつもとなる)本郷光泰(ほんごうみつやす)荒川氏隆(あらかわうじたか)海老名高助(えびなたかすけ)朽木稙綱(くちきたねつな)内談衆(ないだんしゅう)。十三代足利義輝に仕えた上野信孝(うえののぶたか)進士晴舎(しんしはるいえ)。そして、十五代足利義昭に仕えた細川藤孝(ほそかわふじたか)一色藤長(いっしきふじなが)曽我乗助(そがのりすけ)真木島昭光(まきじまあきみつ)等がいました。

 

このような評定衆の役割は、

 

①将軍からのさまざまな問題に対する諮問に対する見解を述べる。

②将軍と世襲法曹事務官僚(せしゅうほうそうじむかんりょう)奉行衆(ぶぎょうしゅう)との間を仲介し幕府奉公人奉書の内容を指示

③将軍と各地の大名との間を取り次ぎ、政治工作などを行う

④将軍からの御内書が発給された時の文書内容について解説した添え状をつける

 

このように多岐にわたっていました。


御前沙汰、政所、侍所

日本戦国時代の鎧(武士)

 

足利将軍が受理する訴訟は、そのタイプで3つの役所に分類されました。それが、御前沙汰、政所(まんどころ)侍所(さむらいどころ)の3つです。以下でそのタイプを解説します。

 

①御前沙汰・・御前沙汰は、将軍が直接に裁く政務運営の基本で、主に所領関係の紛争が多かったようです。ここでは奉行衆と評定衆、内談衆がそれぞれ将軍を補佐しますが、判決の最終決定権は将軍にあり、一度決まると決して覆りませんでした。元々は侍所が行っていた刑事裁判も室町後半には御前沙汰で扱うようになります。

 

②政所・・伊勢氏を長官に政所代の蜷川氏、訴訟を担当する寄人がいました。

不動産を扱う御前沙汰と違い、動産訴訟を扱い、借銭、徳政令、買徳地(ばいとくち)安堵(あんど)、金融業である土倉(どそう)の監督もしていました。政所の訴訟は政所沙汰と言い、将軍がタッチしない独立したものでした。

 

③侍所・・京都の治安活動と刑事裁判を担当し、本来は守護大名が所司として長官になり、部下の被官を所司代を置いて担当していましたが、応仁の乱後には守護大名が京都から消えたので、所司代も任命されなくなり、元々事務方の開闔(かいこう)が犯罪の捕縛や処断を行いました。しかし文官の開闔にはそもそも兵力がなく、人手が不足すると在京の大名や、将軍の直臣(じきしん)、寺社などから人員を動員して治安活動をしていました。

 

侍所の刑事裁判権は応仁の乱の前に失われ、御前沙汰が担当するようになります。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

足利将軍が応仁の乱後、全国的な支配権を失ったのは事実ですが、京都と近畿(きんき)周辺を支配しにらみを効かす一大名としては、なおも侮れない実力を保っていました。訴訟は将軍だけでなく天皇も受理しましたが、双方が異なる判決を出した時には将軍の判決が優先されたそうです。

 

参考文献:真実の戦国時代 渡邊大門

参考文献:明智光秀 史料で読む戦国史

 

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