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この記事の目次
林冲救出のモチーフとなった逸話
林冲救出のモチーフとなった逸話は存在します。南宋(1127年~1279年)の羅大経が執筆した『鶴林玉露』という書物に掲載されています。
『鶴林玉露』によると、晏先という悪党がおり殺人を犯して護送されました。護送役人は彼を途中で殺害することを決意します。その理由について詳細なことは記されていませんが、おそらく流刑地まで送るのが面倒と思ったのでしょう。しかし晏先の友人2名はそのことを知って、こっそりとあとをつけました。友人たちは、護送役人に追いつくと最初は旅の者と偽って仲良くなります。
やがて銀と剣を突き出すと、「晏先を解放しろ!素直に従ったらこの銀をやろう」と脅します。びっくりした護送役人は、あっさりと晏先を解放。そして約束通り彼らから銀をもらいました。晏先と友人はどこかに姿を消します。戻った護送役人は上司に晏先は病気で死んだとウソの報告をして済ませてしまいました。
お話は以上です。史料にこんな話が掲載されるということは、昔は護送中に囚人の逃走・奪還が当たり前だったのでしょう。
林冲暗殺指令 その2
流刑地にたどり着いた林冲は、盧智深と別れます。牢にたどり着いた林冲はそこで模範囚として過ごします。そのため林冲は馬小屋の仕事に配置換えとなりました。しかも外の出入りも自由。こうしてみると昔の囚人は現代に比べると、自由だったようです。しかし、これは高俅の罠でした。林冲を殺すためにわざと配置換えを行ったのでした。
さて、外の出入りが自由になった林冲は酒の購入に出かけます。帰って来るとビックリ!自分が寝止まりする小屋がつぶれており、火まで付いていました。出かけていなかったら林冲は確実に死んでいました。ほっとした林冲でしたが、その時、話し声が聞こえました。どこかで聞いたような声でした。それは牢屋の役人と高俅の部下である富安、さらに林冲の友人の陸虞侯です。
話の内容から火を付けたのは彼らと分かりました。怒った林冲は3人をその場で斬殺してしまいました。
林冲、梁山泊へ!
人殺しを行った林冲はその後、滄州の大富豪である柴進に助けられました。彼はあだ名を「小旋風」と呼ばれています。
人殺しをして都に帰れなくなった林冲は困りました。そこで柴進は林冲に梁山泊を勧めました。梁山泊は山東省にある天然の要塞。官軍も簡単に手を出すことは出来ません。要するに盗賊になることです。
行き場の無い林冲は柴進の忠告を受け入れて、梁山泊に行きました。だが、梁山泊首領である王倫は実力のある人物を追い出すタイプ。王倫は当初、林冲を追い出そうと計画していました。そんな王倫に嫌気がさした林冲は、偶然やって来た晁蓋に首領になってもらうことにします。彼は人々から人望がありました。
案の定、王倫は晁蓋にもお引き取りをしてもらう始末。激怒した林冲はとうとう酒宴の席で王倫を暗殺。晁蓋を新しい首領に推戴しました。一安心した林冲は、妻を梁山泊に呼ぼうとしますが、なんと妻は高俅の息子の高衙内からしつこいナンパを受け、また林冲が死んだというデマを信じて自殺。泣き崩れた林冲は高俅に復讐を誓いました。
林冲=美男子の真実
林冲は張飛がモデルなのに、どうして現在は美男子という印象が強いのでしょうか?理由として考えられているのが設定です。
林冲は(1)美人の妻を持っており、(2)無実の罪に落とされ、(3)妻を自殺に追いこまれ、(4)復讐を誓う
この4つの設定は非常に重要でした。また、これはネタバレになるのですが、林冲は復讐が果たせずに亡くなってしまうのです。これが後世の歌舞伎・ドラマ・マンガ・ゲームに影響を与えてしまい、林冲=美男子という像が出来上がったのです。
もう1つ考えられているのが、物語中盤で性格が張飛そっくりの李逵というキャラクターが登場してしまい、そちらにポジションを奪われたのではないかと私は思います。
宋代史ライター 晃の独り言
先日Youtubeにアップした「後漢書から読み取る韓遂のNo.2理論『大切な成功法則』」の視聴者コメントを確認していたところ、佐分利流28号様から興味深いコメントをいただきました。
〝その後の韓遂はどうなったのでしょうかね。史実では215年に没しているようですがその際、夏侯淵の軍に敗れているのですよね。〟
非常に面白い内容なのでお答えいたします。建安19年(214年)に馬超が楊阜により敗走。この時に連携していた韓遂も夏侯淵の追撃を受けました。
『後漢書』によると逃げる途中部下の手により殺されたとあります。しかし、『後漢書』の中でも病死と書いたりしている個所もあり一定しません。
正史『三国志』に注を付けた裴松之が史料して採用している『魏略』という書物によると韓遂は病死しており、田楽・陽逵という2人が死んだ韓遂の首を斬って曹操に届けています。
ただし、正史『三国志』によると首を持って来たのは麹演・蒋石となっており全く違います。このように韓遂の死因は暗殺・病死どちらなのか断定は出来ません。ただし、首を持って来た人の名前が一定しないことは推測出来ます。
それは1人だけではないからです。おそらく曹操あての手紙に上記の4人の名前が書かれていたのでしょう。なにしろ韓遂は大物だから首を出せば莫大な恩賞がもらえますからね。要するに名前の異同が生じたのは書き手の判断だったのです。佐分利流28号様コメントありがとうございました。また何かありましたら、よろしくお願いします。
文:晃
※参考文献
・宮崎市定『水滸伝 虚構のなかの史実』(初出1972年 のち『宮崎市定全集12 水滸伝』岩波書店 1992年所収)
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