戦国時代の日本には雨後の筍のように多くの戦国大名が出現しましたが、およそ1世紀の波瀾を越えて存続できた家は決して多くありません。そんな中で安芸の国人領主から這い上がり中国の覇者になった毛利元就は、一代で築いた毛利家を幕末まで継承させた稀有な人物でした。どうして、毛利元就にそんな事が出来たのでしょうか?
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乞食若殿と呼ばれた少年時代
毛利元就は、明応6年(1497年)安芸国の国人領主、毛利弘元の次男として誕生します。幼名は松寿丸と言いました。しかし、当時の毛利氏は弱小で父の弘元は酒に幕府と大内氏の争いに疲れて隠居を決意。嫡男の興元に家督を譲り松寿丸を連れて、そのまま多治比猿掛城に移住します。この頃弘元は、酒に溺れて健康を崩し、永正3年(1506年)松寿丸10歳の頃に病死。
兄の興元は上洛して不在だったので後ろ盾を失った松寿丸は、家臣の井上元盛によって所領を奪われ城から追い出され、乞食若殿とバカにされる苦しい少年時代を送ります。
この困窮した松寿丸の生活を支えたのが、父弘元の側室で養母であった杉大方でした。杉大方は立派な女性で、我が子でもない松寿丸を不憫に思い、実家に帰る事なく多治比に留まり、幼い松寿丸を必死で育てました。
杉大方が元就に与えた影響は大きく、元就は女性を尊敬し長じてからは息子達に妹の五龍局にも均等に待遇する事、もし破ったら恨むとまで言っています。
元服して分家する
永正8年(1511年)杉大方は京都にいた興元に使いを出して松寿丸の元服について相談し、兄の許可をもらい松寿丸は元服。そして、多治比元就を名乗り分家を創設して多治比殿と呼ばれるようになります。
このまま分家として毛利家を支える予定だった元就でしたが、永正13年兄の興元が急死します、原因はまたしても大酒による酒毒でした。毛利本家の跡目は、興元の子の幸松丸が継ぎますがまだ幼く、元就は叔父として後見人になります。
しかし、時代は弱肉強食の戦国時代、動揺した毛利氏に対し、佐東銀山城主の武田元繁が吉川領の有田城に侵攻しました。元就は幼い当主の代理として19歳で初陣を飾る事になります。
実力未知数の元就でしたが、安芸武田氏の重臣で猛将として知られた熊谷元直率いる軍を撃破し元直を戦死させます。武田元繁は、一部の兵力のみを有田城の包囲に残して毛利・吉川連合軍と全力で激突、戦況は武田氏に有利でしたが不運にも武田元繁は流れ矢で戦死。
これで大混乱した武田氏は多くの戦死者を出して退却しました。運と知略に助けられ、元就は毛利家存亡の危機を切り抜けたのです。
幸松丸が夭折、本家毛利氏の家督を継ぐ
その後、元就は大内氏から尼子氏側へ鞍替え、幸松丸の後見役として、智略により戦功を積み重ねて毛利家中で信望を集めていきます。27歳の頃に元就は、吉川国経の娘の妙玖を妻に迎え、長男隆元が誕生しています。大永3年(1523年)7月、甥の幸松丸が9歳で死去し分家の元就が志道広良をはじめとする重臣たちの推挙により、27歳で家督を継ぎます。
しかし、分家の元就の家督相続には異論も多かった模様で、坂氏・渡辺氏らの有力家臣団の一部が、尼子経久の指示を受けた尼子氏重臣・亀井秀綱支援の下で動き、元就の異母弟・相合元綱を擁して対抗しますが、元就は執政志道広良等支援を受け粛清しました。こうして、元就は30歳にして毛利氏の当主の地位に就いたのです。
敵味方を峻別し安芸国人の代表となる
元就は家督問題を契機として尼子経久と敵対関係になっていき、大永5年には尼子氏と関係を断ち、再度大内氏の傘下に入ります。そして翌年には尼子氏に通じて相合元綱を擁立しようとした高橋興光等高橋一族を討滅し、安芸から岩見の広大な領地を手に入れ、天文4年には、隣国備後の多賀山通続を攻めて降伏させます。
こうして、毛利氏に対抗する勢力を排除する一方で元就は、宍戸氏とは関係改善を図り娘を宍戸隆家に嫁がせています。それ以外にも、一時大内氏に反乱を起こして窮地においやられた天野氏や安芸武田氏と関係が悪化した熊谷氏とも友好関係を構築していき安芸国人の盟主としての地位を獲得しました。
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