
1930年7月7日は、不朽の探偵小説シャーロック・ホームズシリーズを産み出した作家、アーサー・コナン・ドイルが71歳で没した日です。
コナン・ドイルの本業が医者だった事はわりと有名ですが、ホントはシャーロック・ホームズが嫌いで、連載中に殺して強引に終わりにしたり、政治活動家としても有名で実際に起きた冤罪事件を推理力で解決するなど、シャーロック・ホームズ顔負けの名探偵ぶりも発揮していたのです。今回は、とっても意外なコナン・ドイルの人生の一面を紹介します。
この記事の目次
1859年5月22日スコットランドエディンバラに生まれる
アーサー・コナン・ドイルは、1859年5月22日、スコットランド・エディンバラで測量士補チャールズ・ドイルの息子として生まれました。コナン・ドイルの祖父、ジョン・ドイルはダブリンからロンドンに出てきて風刺画家として成功し、長男ジェームズは画家、次男リチャードはイラストレーター、三男ヘンリーはアイルランド国立美術館館長という芸術家一家として成功しました。
しかし、コナン・ドイルの父、チャールズだけは測量技師補の地位から出世せず、さらにはアルコール依存症で測量技師補の仕事まで失い療養所に送られたので、青年期まで貧しい環境で育ちました。
ただ、学業面では、裕福な伯父の支援を受け、1868年にイングランド・ランカシャーにあるイエズス会の寄宿学校ホダー学院に入学。1870年にはその上級学校であるストーニーハースト・カレッジに進学して同校に5年間学びました。
そこを卒業後、ドイツ語の勉強を兼ねてオーストリア・フェルトキルヒにあるイエズス会系の学校に1年間留学し帰国。その頃、母メアリは少しでも生活費を楽にすべく、ある医師を間借り人として置いており、コナン・ドイルは医師の影響を受けて医者になろうと考え1876年にエジンバラ大学医学部に進学します。
エジンバラ医学部でホームズのモデルに出会う
医師を志して入学したエジンバラ大学医学部での5年間ですが、植物学、化学、解剖学、生理学、その他の医療という技術には繋がりがない必修科目の履修という状態で面白いものではなかったようです。しかし、ここでコナン・ドイルは、後のシャーロック・ホームズの原型となる人物との出会いを果たしました。
それがジョセフ・ベル博士で、彼はちょっとした特徴から患者の状況や経歴を言い当てる人物で、さらに驚くべきことにスコットランドで警察の捜査に何回も関与し1893年のアードラモント殺人事件などに検察側の証人として参加しています。
ベル博士の助手になったコナン・ドイルは、その患者の僅かな仕草から状況や経歴を言い当てるベルの手法からシャーロック・ホームズを産み出したんですね。
また、大学への通学路に古本屋街があった関係で、古本もよく読むようになり、タキトゥスやホメーロスなどの古典、クラレンドン伯爵のイングランド反乱史、エドガー・アラン・ポーの小説などに強い影響を受けました。
コナン・ドイルは身長183センチ、107キロのレスラー体格で、スポーツ万能、クリケット、サッカー、ゴルフ、ビリヤード、ラグビーを楽しみ、さらにアマチュアのボクサーでもあり、相手がいると試合をしたがり中々強かったそうです。
医者になるもヤブ医者扱いで小説投稿を始める
大学在学中コナン・ドイルは、苦しい実家の家計の足しにしようと医師の助手をしてパートタイム労働をしたり、捕鯨船に乗り組んで8カ月船医もやりました。
その経験から大学卒業後にアフリカ汽船会社に船医として就職しますが、ここで乗客が次々とマラリアに感染その治療に追われ、遂にはコナン・ドイルも感染して一時生死の境を彷徨う経験をします。気候も暑くて耐えがたく、就職から3カ月でリバプールに寄港した時に退職しました。
その後、エジンバラ大学で同期のジョージ・バッドに誘われてプリマスのバッド診療所の共同経営者になりますが、元々繁盛していた診療所はコナン・ドイルが診察するようになると客が減り始め2カ月も経過しないうちに二人は喧嘩別れしました。
1882年6月、コナン・ドイルは、ポーツマス郊外のサウスシーで診療所を個人開業しますが、8年の経営期間に年収が300ポンドを超えた年はなく、馬車も保有できないヤブ医者として客がよりつかず苦しい経営を強いられます。
一方でスポーツマンのコナン・ドイルは地域社会にはすぐに溶け込み、ボウリング大会で優勝し、クリケット・クラブの主将を務めるなど地域から孤立する事はありませんでした。
患者が来ず暇なコナン・ドイルは、やがて、短編小説を執筆しては雑誌社に投稿するようになります。才能はあり、1882年には「わが友、殺人者」という短編小説がロンドンソサエティ誌から10ポンドで買ってもらえました。
ただ、当時は作品買取りは稀な事であり、小遣い稼ぎ以上にはならず、それ以上に掲載された雑誌には作者名がクレジットされないので知名度も上がりません。1885年には結婚していたコナン・ドイルは、このまま短編を書いても進歩がないと考えるようになり単行本になるほどの長編を書こうと思い立ちます。
そして、1886年3月から4月にかけて執筆した長編小説が、あの大学時代のベル教授をモデルにした私立探偵のシャーロック・ホームズが活躍するシリーズの第1作「緋色の研究」でした。
私達は、シャーロック・ホームズというビッグネームを知っているので、これでコナン・ドイルが作家として大成功するかと思いがちですが、意外にも書くには書いたものの、連載してくれる出版社がなかなか見つからず、ようやく1886年10月末にウォード・ロック社に25ポンドという短編並みの安値で買われます。1888年には、単行本化されたものの、反響はほどほどでしかなかったようです。
ヤブ医者を止め作家業一本に絞る
この後、コナン・ドイルは歴史小説などで長編を出しますが、何を思ったのか、1890年11月に、突如眼科医になると言い出し診療所を閉めます。
そして妻を連れてオーストリアの首都、ウィーンに移住して眼科医の実習を受けたもののコナン・ドイルのドイツ語レベルは専門的授業を受けられるレベルではなく、すぐに授業についていけなくなり、結局6カ月の研修を2カ月で終わらせ、1891年3月にロンドンに帰国します。
そして、ロンドンのモンタギュープレイス23番地の邸宅で暮らしつつ、アッパーウィンポール街において無資格で眼科医を始めますが、そもそもロンドンには有資格の眼科医が沢山いたので、ここでもヤブ医者扱いで患者が全く来なくなり、また、暇な時間を小説執筆に費やします。
コナン・ドイルは、自分は医者としても経営者としても才能がないと悟らざるを得ず、眼科医も廃業し執筆業一本に絞る事を決意しました。以後のコナン・ドイルは、サウス・ノーウッドの郊外、テニスン・ロード12番地に移住します。
シャーロック・ホームズシリーズの人気に火が付く
作家として一本立ちするに辺り、コナン・ドイルは、同じ登場人物を主人公とした短編小説を読み切り連載で書く事を構想していました。コナン・ドイルは、自分を司馬遼太郎のような歴史作家と考えていて、大作を執筆する傍らで、息抜きになる軽い小説を書こうと考えていたようです。
そこで、白羽の矢を立てたのが、すでに緋色の研究と四つの署名の2作品を出していたシャーロック・ホームズシリーズでした。そこそこ売れて人気があるし、新しくキャラを練る苦労もない、これならシリーズ化も難しくないだろうと考えたわけです。一度当たった作品が美味しいのは、小説も少年漫画も同じという事ですね(悪い顔)
コナン・ドイルは、こうしてホームズの短編を6編書いて、1891年に発刊されたばかりのストランド・マガジン誌に1作35ポンドで買ってもらい、1891年7月号から順次掲載されます。このホームズシリーズは初回から大きな話題を呼び、ストランド・マガジンの発売部数を押し上げます。
好評にこたえて、さらにコナン・ドイルは、6編のホームズの短編を書いて1892年1月号から連載されました。さらに、全ての連載が終わった1892年6月、これまで発表された12編のホームズ短編小説が「シャーロック・ホームズの冒険」として単行本化されます。
コナン・ドイルの元には、ホームズ読者の手紙が大量に届くようになりますが、その宛先はコナン・ドイルではなく、シャーロック・ホームズでした。さらに、サインを求められる事があっても、コナン・ドイルではなく、シャーロック・ホームズで求められる事が多かったようです。
ホームズが嫌になり作品中で滝に落として殺す
当初こそ、ホームズのファンレターにワトソンとして返事を出したりしていたコナン・ドイルですが、本人にとりホームズシリーズは余興で本領は重厚な歴史小説だと考えていました。
事実、最初のホームズ連載が終わると、コナン・ドイルは、ホームズを離れて17世紀のフランスのカルヴァン派への弾圧と彼らのアメリカ亡命を描いた歴史小説「亡命者」の執筆に入りますが、それはそこそこ売れはしたものの、すでにホームズ人気には及びませんでした。
ストランド・マガジンは、最初のホームズ連載終了時から
「先生~、歴史小説なんかいいですから、ホームズの続編を書いて下さいよぉ」と執拗に要請していました。
いたくプライドを傷つけられたコナン・ドイルは、出版社を諦めさせようと
「1000ポンドの報酬を出すならもう12編のホームズ短編を書いてもいい」と条件を提示します。
しかし、ストランド・マガジンは本当に1000ポンド出してしまい、コナン・ドイルはホームズを再開せざるを得なくなるのです。ちなみに1000ポンドとは、日本円に換算すると6500万円から8000万円に相当する大金でホームズシリーズは出版社にとって、ドル箱、ならぬポンド箱だったんですね。
ただ、本心ではホームズシリーズを書きたくないコナン・ドイルは、人気者のホームズに対して非情な報復を仕込んでいました。連載の最期、1893年12月号の「最期の事件」でホームズをライヘンバッハの滝に叩き落として死んだとし、強引に作品に終止符を打ってしまったのです。
これには困惑と批判が殺到しますが、コナン・ドイルは構わずに1894年からナポレオン戦争時代を描いたジェラール准将シリーズを開始しました。ジェラール准将も単行本化されましたが、やはりホームズシリーズには及ばず、世間ではホームズ・シリーズ再開とホームズ復活を求める声が強かったようです。
シャーロック・ホームズの復活
医療奉仕団としてボーア戦争に従軍し、その後の政界進出で失敗したコナン・ドイルは、1901年3月友人とノーフォークの温泉へ行きます。そこで友人からダートムーアに伝わる魔犬伝説を聞き、これに興味を持ったコナン・ドイルは現地調査を行った上で数か月でホームズの長編小説「バズカヴィル家の犬」を書き上げます。
これらの作品は、ストランドマガジン1901年8月号から8回に分けて連載され、ホームズファンはホームズ復活を喜びますが、実はこの作品はホームズ死亡を覆してはなく、最期の事件よりも以前に時間軸を置いた生前のホームズの書いていない事件として発表されていました。しかし、それでいよいよ、ファンのホームズ復活への熱望が高まる事になり、コナン・ドイルも、とうとうホームズを復活させる決意を固めます。
1903年10月からストランド・マガジン新連載された読み切りホームズ短編シリーズの第一作、「空家の冒険」でホームズはバリツなる日本武術を使い死なずに済んだと設定、死亡したという設定を無効にしました。以後、シャーロック・ホームズは死ぬ事なくコナン・ドイルの死後も不滅の名探偵として様々な形で登場するようになります。
時代を掴んでいた探偵小説
どうして、コナン・ドイル自体が軽い小説と自嘲していたシャーロック・ホームズが、当時のイギリスで爆発的な人気を集めたのでしょうか?
それは、19世紀後半のイギリスでは、それまでの聞き込みに頼った犯罪調査から、指紋や血痕、凶器のような証拠を元にした科学調査に捜査が切り替わった時期である事が挙げられます。
18世紀頃までは、捜査もへったくれもなく、村の嫌われ者やユダヤ人のような差別されている人々をでっちあげで逮捕して処刑し、事件解決と称していたものに科学的な捜査が取り入れられ、逮捕に至るまでの過程に、庶民が関心を持ち始めたのです。
また、1880年代は全イギリスを震え上がらせた猟奇殺人、切り裂きジャックによる事件が起きましたが、警察は犯人を特定できず、市民は警察の無能に怒りを募らせていました。そこに、鮮やかな推理力と科学的捜査の手法を持ち込んだ私立探偵のホームズが登場し、無能な警察をしり目に難事件を快刀乱麻に解決していったのです。
庶民はホームズを自分達のヒーローとして受け入れ、その人気は警察が無能な分、うなぎ上りに上って行く結果になりました。
名探偵コナン・ドイル
名探偵シャーロックホームズを産み出したコナン・ドイルですが、彼自身も分析能力に優れていて探偵として冤罪事件を解決しています。例えば、1903年バーミンガムに近いグレイト・ワーリーで、6カ月にわたって同地の家畜の牛馬が何者かによって腹を裂かれて殺されるジョージ・エダルジ事件がそうです。
この事件では、警察の捜査は杜撰そのもので、同地で弁護士をしていたインド系のジョージ・エダルジを人種差別から犯人にでっち上げました。
警察は、犯人はエダルジだとする怪文書と家畜の血痕と馬の毛がついたスーツ、それに怪文書の筆跡がエダルジの自作自演であるという証拠でエダルジを逮捕。裁判に掛けられたエダルジは、裁判で石切り場での7年間の重労働の刑に処せられました。
しかし、エダルジが逮捕されても家畜の虐殺は収まらず、また、怪文書の筆跡鑑定をした人物は、別の事件でも警察の意向で鑑定を歪めるいい加減な人物である事が知られると、エダルジ冤罪説が強まり内務省に再審請求が殺到し、内務省はエダルジを仮釈放、しかし、釈放理由の説明もなく有罪判決が取り消されたわけでもなく憤慨したエダルジは新聞で自らの冤罪を訴えました。
これを読んで事件に関心を持ったコナン・ドイルは、裁判記録を調べ、犯行現場を視察して、またエダルジ本人と会見します。その時、コナン・ドイルは、エダルジが極度の近眼と乱視である事を見抜き、夜中に家畜場や家畜の位置を特定して傷つけるなど不可能と考えます。
コナン・ドイルは、証拠の洗い直しをし、怪文書の筆跡はエダルジのモノではないという鑑定結果を得られ、スーツの馬の毛については、スーツが警察署に運ばれる途中に、馬のなめし皮入りの袋に入れられたために付着しただけと突き止めます。
さらに、スーツの血痕については、どんな腕のいい暗殺者でも、暗闇で馬を引き裂いて3ペンス銅貨2つ分の血痕しかつかないなどという事はあり得ないと問題視しませんでした。
世界的に著名な作家、コナン・ドイルが冤罪を晴らそうとしているというニュースは、国内外で大きな反響を呼び、イギリス政府は1907年春には、「エダルジ委員会」を組織して事件の再調査を約束する羽目になります。
しかし、エダルジ委員会は、警察に都合の良い人物を入れるなど出来レースであり、家畜殺しについてはエダルジの無罪を認めつつも怪文書については、有罪を覆さず特赦を与えつつも、3年の重労働分の補償は認めませんでした。
このように、推理小説のようにすっきり解決したわけではありませんが、コナン・ドイルは名探偵でもあったのです。
愛国者としてのコナン・ドイル
政治思想面でのコナン・ドイルは、中世騎士道を基礎とした国家主義、帝国主義、反共主義、婦人参政権反対、離婚法改正賛成などの立場を取りました。コナン・ドイルはイギリスの帝国主義の拡大こそが世界を平和にするという、当時のイギリスの保守的な人に多い思想の持ち主であり、1900年のボーア戦争では医療奉仕団として従軍しています。
さらに、ボーア戦争がゲリラ戦になり、焦土作戦や強制収容所でのイギリス軍のボーア人への虐殺行為が国内外で批判されると、「南アフリカ戦争 原因と行い」を執筆してイギリスの汚名を雪ぐ事に尽力して、エドワード7世からサーの称号を得たり、第一次世界大戦では、政府や軍部の戦争遂行を全力で支援し、戦意高揚の為に執筆し前線を回って士気を鼓舞する演説を行っています。
しかし、何でもかんでもイギリスを賛美したわけではなく、冤罪事件では身内をかばい合う警察の態度を醜悪だと強く非難していますし、同じくアフリカに植民地を持っていたベルギーのレオポルド2世の残虐なコンゴ支配には批判的で、「コンゴの犯罪」という本を書いています。
コナン・ドイルは騎士道精神から勇気を尊び卑怯を嫌う傾向がありましたが、基本はマッチョイムズであり、女性は守るべき存在であると定義して女性に過酷な慣習や法律には批判的な一方で、女性参政権のような男性と同等の権利を与える事には強く反対していました。
その為、女性活動家には激しく嫌われていて、1914年に訪米した際は、あるアメリカ合衆国の新聞に「シャーロック来る。狂気の女たちのリンチに期待」という見出しをつけられたりしています。
1930年7月7日新しい冒険に出ると言い残し死去
コナン・ドイルは、第一次世界大戦後は、身内が多く戦死した事から、以前より研究していた心霊主義に大きく傾くようになりました。これは霊魂の不滅を信じ、死ぬ事は別の世界に移るだけという考え方で、合理的なシャーロックホームズの作者にはそぐわないように見えますが、当時心霊主義はイギリスの知識人・著名人に広く信じられていて、いわゆるオカルトのような雰囲気ではなかったようです。
1930年7月7日、老衰で心臓発作を繰り返すようになったコナン・ドイルは、これまで以上の素晴らしい冒険の旅へ行くと言い残してこの世を去りました。
世界史ライターkawausoの独り言
元々は医者で身を立てようとして失敗し、司馬遼太郎のような歴史作家になろうとして、息抜きで書いたシャーロック・ホームズが大当たりして、歴史小説がかすんでしまった微妙なコナン・ドイル。遂には癇癪を起して、ホームズを作品中で殺してしまったものの、熱烈なファンの要求で、結局は生き返らせる事になってしまいます。
人生はままならないものですが、己の望んだ形ではないとはいえ、100年以上も命脈を保つ探偵小説のスターを産み出したのは、作家冥利に尽きるものではないでしょうか?
(文:kawauso)
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