河尻秀隆と聞いても、誰それ?という人が多いかと思います。それもその筈で、川尻秀隆は甲斐国主にまでなったものの、途中で織田信忠の補佐になった為、信長直属の軍団長にもなれず、おまけに本能寺の変後には、甲斐で武田の残党に殺害されるなどあまり華がありません。今回はそんなマイナーな河尻秀隆を解説してみましょう。
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織田信勝を殺害する汚れ役
河尻秀隆は、大永7年(1527年)尾張国岩崎村の出身と言われています。
父母については不明な部分が多いですが、清須織田家の老臣、河尻与一と同族の可能性が高いようです。その縁で秀隆は清須三奉行の1人だった織田信秀に仕え、実名秀隆の「秀」字は信秀の偏諱を与えられたものでした。
天文11年(1542年)8月、河尻秀隆は織田信秀に従い、第一次小豆坂の戦いに参加し、今川氏の先陣を努めた足軽大将、由原と一騎打ちになり、取っ組み合いの末に討ち取る武功を挙げます。
織田信秀の没後は、織田信長に仕え黒母衣衆の筆頭を務め、永禄元年(1558年)信長が弟の織田信勝を謀殺を企んだ時、清須城に呼び寄せた信勝を秀隆と青貝の2人で殺害しました。
桶狭間で信長に真っ先に従う
永禄3年(1560年)5月河尻秀隆は桶狭間の戦いに参加。それも急遽出陣した信長について行った5名の小姓、織田造酒丞、岩室重休、長谷川橋介、山口飛騨守、加藤弥三郎に混ざって出撃しています。
また、今川義元は、毛利良勝が今川義元を討ち取ったとされていますが、討ち手を河尻秀隆とする異説もあるようです。
永禄8年(1565年)秀隆は丹羽長秀と共に美濃猿啄城攻略を命じられます。猿啄城の城主、多治見修理亮は地の利を生かして城を巧みに守りますが、丹羽長秀が隣山を占拠して水源を断ち、さらに秀隆が猛攻を仕掛けて落城させました。
同年9月28日には、堂洞城を攻め、激戦の中で本丸に一番乗りをするという武功を挙げ城主、岸信周を自害に追い込んでいます。美濃攻めで手柄を立てた秀隆は猿啄城を与えられ、ここを勝山城と改称しました。
信長上洛後
信長上洛後の永禄12年(1569年)には、織田と伊勢北畠氏との間で起きた大河内の戦いに参加。元亀元年(1570年)には、浅井・朝倉連合軍との戦い姉川の戦いでは、浅井の支城、佐和山城の監視をしています。
直後の志賀の陣では、朝倉義景・浅井長政・比叡山延暦寺の連合軍と戦い、佐久間信盛、明智光秀、村井貞勝、佐々成政等と穴太砦に入り延暦寺を包囲の一角を担いました。
元亀2年(1571年)2月、秀隆は浅井氏の武将、磯野員昌が退去した佐和山城に入城、以後は佐和山城主の丹羽長秀と共に城将として活動します。同年9月には、有名な比叡山焼き討ちに際して、信長の命令で秀隆は丹羽長秀と共に湖東三山の西明寺に焼き討ちを行いました。
元亀3年(1572年)10月、武田信玄の敵対を知った信長の命令で、秀隆は織田信広と岩村城を占拠し信長の4男の坊丸(織田信房)を遠山家の養子に据えます。
岩村城主の遠山景任は、信長の叔母おつやを妻にしていましたが、景任が後継ぎなく病死しおつやが女城主になっていました。信長はドサクサ紛れに有力武将の遠山氏を乗っ取ろうとしたわけです。
織田信勝謀殺と言い、河尻秀隆は謀略の手腕でも信長に認められていたようです。
しかし、11月、岐阜城に詰めていた佐久間信盛が徳川家康の援軍として浜松に派遣、手薄になった岐阜城の防衛強化のために信広と秀隆は岩村城から帰還しました。その直後、信長の強引な手法に反感を持った遠山家臣らは、岩村城に軍勢を引き入れて武田方に寝返り、翌年3月には秋山虎繁が入城。
信長の叔母にあたるおつやの方は抵抗せずに繁と祝言を上げ、坊丸は人質として甲斐に送られました。
信長は後に岩村城を奪い返しますが、降伏した秋山虎繁とおつやの方を許さず、2人とも磔にしたそうです。岩村城については、遠山家の旧臣の思惑を見抜けずにしくじった河尻秀隆ですが、信長の秀隆への信頼は揺るがず、それが秀隆を次のステップに導きます。
織田信忠の補佐役に就任
天正2年(1574年)秀隆は前年に元服を終えた信長の嫡男、織田信忠付の武将になり補佐を命じられます。
翌年の長篠の戦いでは、信忠を補佐して参陣、信忠に代わり信忠軍の指揮を執り、合戦後には信忠と共に岩村城を攻めて包囲、同年の11月、夜襲を仕掛けてきた武田氏の援軍を打ち破り、大将格21人に兵卒1100人以上を討ち取る大打撃を与え岩村城を落城させました。
秀隆は信長の命令に従い、捕えた秋山虎繁やおつやの方を岐阜城に送り城兵を処刑。秀隆の忠誠を喜び、信忠軍団随一の功労者として岩村城5万石を与え、秀隆は大名になります。
岩村入城後、秀隆は城下町形成のため岩村川から水を引いて「天正疎水」と呼ばれる4本の用水路を設置しました。400年経過した現在でも、天正疎水は、城下の家々の下を流れ生活用水として大きな役割を果たし、河村秀隆は岩村町の基礎を作ったのです。
岩村城主になった大名河村秀隆は、長く東美濃に留まり引き続き武田氏の抑えという重責を担いました。これは、信長の信任あっての事ですが、その為に秀隆は東美濃を4年間動けず、毛利氏や大坂本願寺など畿内以西の戦線には関われず、派手な合戦とは無縁な地味武将になっていきます。
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