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この記事の目次
シャーロック・ホームズシリーズの人気に火が付く
作家として一本立ちするに辺り、コナン・ドイルは、同じ登場人物を主人公とした短編小説を読み切り連載で書く事を構想していました。コナン・ドイルは、自分を司馬遼太郎のような歴史作家と考えていて、大作を執筆する傍らで、息抜きになる軽い小説を書こうと考えていたようです。
そこで、白羽の矢を立てたのが、すでに緋色の研究と四つの署名の2作品を出していたシャーロック・ホームズシリーズでした。そこそこ売れて人気があるし、新しくキャラを練る苦労もない、これならシリーズ化も難しくないだろうと考えたわけです。一度当たった作品が美味しいのは、小説も少年漫画も同じという事ですね(悪い顔)
コナン・ドイルは、こうしてホームズの短編を6編書いて、1891年に発刊されたばかりのストランド・マガジン誌に1作35ポンドで買ってもらい、1891年7月号から順次掲載されます。このホームズシリーズは初回から大きな話題を呼び、ストランド・マガジンの発売部数を押し上げます。
好評にこたえて、さらにコナン・ドイルは、6編のホームズの短編を書いて1892年1月号から連載されました。さらに、全ての連載が終わった1892年6月、これまで発表された12編のホームズ短編小説が「シャーロック・ホームズの冒険」として単行本化されます。
コナン・ドイルの元には、ホームズ読者の手紙が大量に届くようになりますが、その宛先はコナン・ドイルではなく、シャーロック・ホームズでした。さらに、サインを求められる事があっても、コナン・ドイルではなく、シャーロック・ホームズで求められる事が多かったようです。
ホームズが嫌になり作品中で滝に落として殺す
当初こそ、ホームズのファンレターにワトソンとして返事を出したりしていたコナン・ドイルですが、本人にとりホームズシリーズは余興で本領は重厚な歴史小説だと考えていました。
事実、最初のホームズ連載が終わると、コナン・ドイルは、ホームズを離れて17世紀のフランスのカルヴァン派への弾圧と彼らのアメリカ亡命を描いた歴史小説「亡命者」の執筆に入りますが、それはそこそこ売れはしたものの、すでにホームズ人気には及びませんでした。
ストランド・マガジンは、最初のホームズ連載終了時から
「先生~、歴史小説なんかいいですから、ホームズの続編を書いて下さいよぉ」と執拗に要請していました。
いたくプライドを傷つけられたコナン・ドイルは、出版社を諦めさせようと
「1000ポンドの報酬を出すならもう12編のホームズ短編を書いてもいい」と条件を提示します。
しかし、ストランド・マガジンは本当に1000ポンド出してしまい、コナン・ドイルはホームズを再開せざるを得なくなるのです。ちなみに1000ポンドとは、日本円に換算すると6500万円から8000万円に相当する大金でホームズシリーズは出版社にとって、ドル箱、ならぬポンド箱だったんですね。
ただ、本心ではホームズシリーズを書きたくないコナン・ドイルは、人気者のホームズに対して非情な報復を仕込んでいました。連載の最期、1893年12月号の「最期の事件」でホームズをライヘンバッハの滝に叩き落として死んだとし、強引に作品に終止符を打ってしまったのです。
これには困惑と批判が殺到しますが、コナン・ドイルは構わずに1894年からナポレオン戦争時代を描いたジェラール准将シリーズを開始しました。ジェラール准将も単行本化されましたが、やはりホームズシリーズには及ばず、世間ではホームズ・シリーズ再開とホームズ復活を求める声が強かったようです。
シャーロック・ホームズの復活
医療奉仕団としてボーア戦争に従軍し、その後の政界進出で失敗したコナン・ドイルは、1901年3月友人とノーフォークの温泉へ行きます。そこで友人からダートムーアに伝わる魔犬伝説を聞き、これに興味を持ったコナン・ドイルは現地調査を行った上で数か月でホームズの長編小説「バズカヴィル家の犬」を書き上げます。
これらの作品は、ストランドマガジン1901年8月号から8回に分けて連載され、ホームズファンはホームズ復活を喜びますが、実はこの作品はホームズ死亡を覆してはなく、最期の事件よりも以前に時間軸を置いた生前のホームズの書いていない事件として発表されていました。しかし、それでいよいよ、ファンのホームズ復活への熱望が高まる事になり、コナン・ドイルも、とうとうホームズを復活させる決意を固めます。
1903年10月からストランド・マガジン新連載された読み切りホームズ短編シリーズの第一作、「空家の冒険」でホームズはバリツなる日本武術を使い死なずに済んだと設定、死亡したという設定を無効にしました。以後、シャーロック・ホームズは死ぬ事なくコナン・ドイルの死後も不滅の名探偵として様々な形で登場するようになります。
時代を掴んでいた探偵小説
どうして、コナン・ドイル自体が軽い小説と自嘲していたシャーロック・ホームズが、当時のイギリスで爆発的な人気を集めたのでしょうか?
それは、19世紀後半のイギリスでは、それまでの聞き込みに頼った犯罪調査から、指紋や血痕、凶器のような証拠を元にした科学調査に捜査が切り替わった時期である事が挙げられます。
18世紀頃までは、捜査もへったくれもなく、村の嫌われ者やユダヤ人のような差別されている人々をでっちあげで逮捕して処刑し、事件解決と称していたものに科学的な捜査が取り入れられ、逮捕に至るまでの過程に、庶民が関心を持ち始めたのです。
また、1880年代は全イギリスを震え上がらせた猟奇殺人、切り裂きジャックによる事件が起きましたが、警察は犯人を特定できず、市民は警察の無能に怒りを募らせていました。そこに、鮮やかな推理力と科学的捜査の手法を持ち込んだ私立探偵のホームズが登場し、無能な警察をしり目に難事件を快刀乱麻に解決していったのです。
庶民はホームズを自分達のヒーローとして受け入れ、その人気は警察が無能な分、うなぎ上りに上って行く結果になりました。
名探偵コナン・ドイル
名探偵シャーロックホームズを産み出したコナン・ドイルですが、彼自身も分析能力に優れていて探偵として冤罪事件を解決しています。例えば、1903年バーミンガムに近いグレイト・ワーリーで、6カ月にわたって同地の家畜の牛馬が何者かによって腹を裂かれて殺されるジョージ・エダルジ事件がそうです。
この事件では、警察の捜査は杜撰そのもので、同地で弁護士をしていたインド系のジョージ・エダルジを人種差別から犯人にでっち上げました。
警察は、犯人はエダルジだとする怪文書と家畜の血痕と馬の毛がついたスーツ、それに怪文書の筆跡がエダルジの自作自演であるという証拠でエダルジを逮捕。裁判に掛けられたエダルジは、裁判で石切り場での7年間の重労働の刑に処せられました。
しかし、エダルジが逮捕されても家畜の虐殺は収まらず、また、怪文書の筆跡鑑定をした人物は、別の事件でも警察の意向で鑑定を歪めるいい加減な人物である事が知られると、エダルジ冤罪説が強まり内務省に再審請求が殺到し、内務省はエダルジを仮釈放、しかし、釈放理由の説明もなく有罪判決が取り消されたわけでもなく憤慨したエダルジは新聞で自らの冤罪を訴えました。
これを読んで事件に関心を持ったコナン・ドイルは、裁判記録を調べ、犯行現場を視察して、またエダルジ本人と会見します。その時、コナン・ドイルは、エダルジが極度の近眼と乱視である事を見抜き、夜中に家畜場や家畜の位置を特定して傷つけるなど不可能と考えます。
コナン・ドイルは、証拠の洗い直しをし、怪文書の筆跡はエダルジのモノではないという鑑定結果を得られ、スーツの馬の毛については、スーツが警察署に運ばれる途中に、馬のなめし皮入りの袋に入れられたために付着しただけと突き止めます。
さらに、スーツの血痕については、どんな腕のいい暗殺者でも、暗闇で馬を引き裂いて3ペンス銅貨2つ分の血痕しかつかないなどという事はあり得ないと問題視しませんでした。
世界的に著名な作家、コナン・ドイルが冤罪を晴らそうとしているというニュースは、国内外で大きな反響を呼び、イギリス政府は1907年春には、「エダルジ委員会」を組織して事件の再調査を約束する羽目になります。
しかし、エダルジ委員会は、警察に都合の良い人物を入れるなど出来レースであり、家畜殺しについてはエダルジの無罪を認めつつも怪文書については、有罪を覆さず特赦を与えつつも、3年の重労働分の補償は認めませんでした。
このように、推理小説のようにすっきり解決したわけではありませんが、コナン・ドイルは名探偵でもあったのです。
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