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この記事の目次
愛国者としてのコナン・ドイル
政治思想面でのコナン・ドイルは、中世騎士道を基礎とした国家主義、帝国主義、反共主義、婦人参政権反対、離婚法改正賛成などの立場を取りました。コナン・ドイルはイギリスの帝国主義の拡大こそが世界を平和にするという、当時のイギリスの保守的な人に多い思想の持ち主であり、1900年のボーア戦争では医療奉仕団として従軍しています。
さらに、ボーア戦争がゲリラ戦になり、焦土作戦や強制収容所でのイギリス軍のボーア人への虐殺行為が国内外で批判されると、「南アフリカ戦争 原因と行い」を執筆してイギリスの汚名を雪ぐ事に尽力して、エドワード7世からサーの称号を得たり、第一次世界大戦では、政府や軍部の戦争遂行を全力で支援し、戦意高揚の為に執筆し前線を回って士気を鼓舞する演説を行っています。
しかし、何でもかんでもイギリスを賛美したわけではなく、冤罪事件では身内をかばい合う警察の態度を醜悪だと強く非難していますし、同じくアフリカに植民地を持っていたベルギーのレオポルド2世の残虐なコンゴ支配には批判的で、「コンゴの犯罪」という本を書いています。
コナン・ドイルは騎士道精神から勇気を尊び卑怯を嫌う傾向がありましたが、基本はマッチョイムズであり、女性は守るべき存在であると定義して女性に過酷な慣習や法律には批判的な一方で、女性参政権のような男性と同等の権利を与える事には強く反対していました。
その為、女性活動家には激しく嫌われていて、1914年に訪米した際は、あるアメリカ合衆国の新聞に「シャーロック来る。狂気の女たちのリンチに期待」という見出しをつけられたりしています。
1930年7月7日新しい冒険に出ると言い残し死去
コナン・ドイルは、第一次世界大戦後は、身内が多く戦死した事から、以前より研究していた心霊主義に大きく傾くようになりました。これは霊魂の不滅を信じ、死ぬ事は別の世界に移るだけという考え方で、合理的なシャーロックホームズの作者にはそぐわないように見えますが、当時心霊主義はイギリスの知識人・著名人に広く信じられていて、いわゆるオカルトのような雰囲気ではなかったようです。
1930年7月7日、老衰で心臓発作を繰り返すようになったコナン・ドイルは、これまで以上の素晴らしい冒険の旅へ行くと言い残してこの世を去りました。
世界史ライターkawausoの独り言
元々は医者で身を立てようとして失敗し、司馬遼太郎のような歴史作家になろうとして、息抜きで書いたシャーロック・ホームズが大当たりして、歴史小説がかすんでしまった微妙なコナン・ドイル。遂には癇癪を起して、ホームズを作品中で殺してしまったものの、熱烈なファンの要求で、結局は生き返らせる事になってしまいます。
人生はままならないものですが、己の望んだ形ではないとはいえ、100年以上も命脈を保つ探偵小説のスターを産み出したのは、作家冥利に尽きるものではないでしょうか?
(文:kawauso)
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