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この記事の目次
甲斐を与えられ国持ち大名になる
天正8年(1580年)河尻秀隆は、信長より安土城下の下豊浦に屋敷を与えられます。天正10年(1582年)2月から秀隆は甲州征伐に従軍、2月6日に国境を守る滝沢の城番下条信氏の家老衆を寝返らせて岩村口から武田領に侵攻。
その後、信忠率いる本隊と共に進軍、高遠城の動揺を誘う為に調略を用いて城下町を焼き払い、高遠城を一日で陥落。この時、信忠の軍勢には団忠正や森長可など血気に逸り命令違反を繰り返す家臣がいましたが、秀隆はこれを上手く統制しています。
3月11日には、滝川一益と秀隆の軍で、田野に逃れた武田勝頼、信勝父子を追跡して討ち取ります。武田征伐後、信長は論功行賞で、秀隆に穴山信君領の甲斐河内領を除き、甲斐22万石と信濃諏訪郡を与え、秀隆は国持ち大名になるのです。
本能寺の変勃発
しかし、川尻秀隆が甲斐国主であった期間は僅か2カ月に過ぎませんでした。天正10年(1582年)6月2日、京都で本能寺の変が勃発し主君信長が明智光秀に討たれたのです。
これにより旧武田領の各地で武田の遺臣による国人一揆が勃発。同じ織田家中でも、森長可、毛利長秀らが領地を放棄して美濃へ帰還する中で滝川一益と秀隆は領国に留まります。
一方、堺から命からがら逃げ戻った徳川家康も、甲斐の合併を意図、武田の遺臣を使い工作を開始しました。堺で信長の死を知った時は、信長の弔い合戦を口走った家康ですが、変わり身が早いもんです。
家康は、米倉忠継、折井次昌に対し甲斐の武士を徳川方へ帰属させ、家康の甲斐侵攻を待つように指示。さらに、岡部正綱を甲斐・下山に派遣し菅沼城の普請を命じ、穴山信君横死後の穴山領、穴山家臣衆を従属させ、同じ甲斐である秀隆は警戒を強めていきます。
徳川家康の指図で武田の遺臣に殺される
徳川家康は、甲斐国人に秀隆の所領を対象とした知行安堵状を発給し、明らかに河尻秀隆を敵視した計略を取り始めました。一方で家康は、河尻秀隆の知人の本多忠政を派遣して、事態収拾のため秀隆に上方へ帰るように勧めています。白々しい話で、これで秀隆が甲斐を去ろうものなら、そのまま甲斐を領有するつもりだったのでしょう。
秀隆は家康が甲斐を狙っている事を掴んでおり、先手を打って本多忠政を斬殺し家康と敵対する事を決意します。しかし、天正10年、6月18日、殺された忠政の家臣の呼びかけで、武田遺臣が結集して秀隆を襲撃。岩窪において秀隆は三井弥一郎に討ち取られます享年56歳。
別の説では、自害したとも伝わりますが、かつて甲斐一国を掴んだ男にしては呆気ない最期です。河尻秀隆の死により宙に浮いた甲斐は、相模の北条氏直と徳川家康で激闘の末、天正壬午の乱後に家康が支配しました。
戦国時代ライターkawausoの独り言
河尻秀隆は、織田信長の寵愛を受けていたとされ、信勝謀殺や甲州征伐でも甲斐の国衆を繰り崩すなど計略にも長けていて、同時に監察として軍団に軍規を守らせる力を持っていました。だからこそ、信長は息子の織田信忠の補佐役を秀隆に任せたのでしょう。
しかし、秀隆の能力は信長の威光あってのもので臨機応変の才には欠けていて、明らかに地獄になる甲斐に留まってしまった事は、痛恨のミスでした。あるいは、信長の生存を信じ任された甲斐を守り抜こうとしたのでしょうか。
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