皇帝ネロと言えば暴君というイメージが定着していると思います。
ローマを己の好みの街に造り変えようと放火して罪をキリスト教徒になすりつけるなど、幾つかの悪行でも知られているでしょう。しかし一方でネロは、ローマ市民に人気があり死後は神格化され、何人も偽物が出た程でした。
では、そんなネロはどうして自殺に追い込まれたのでしょうか?
この記事の目次
皇帝ネロ西暦37年に誕生
ネロは本名をネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクスと言い、西暦37年小アグリッピナとグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスの息子として誕生します。両親とも皇帝や三頭政治を担った執政官を出した名門の家柄だと覚えておいて下さい。紛らわしいのでネロの名前はネロで統一します。
ネロが誕生した西暦37年、ネロから見ると母の兄にあたるカリグラが第3代ローマ皇帝に即位します。西暦40年、父のグナエウスが病死、母小アグリッピナも暴君化したカリグラによって追放され父の遺産はカリグラに没収されました。
その後ネロは叔母のドミティア・レピダのもとで育てられますが、その3年後カリグラが暗殺され、伯父のクラウディウスが第4代ローマ皇帝となると母子ともにローマに戻ります。
母の策略でローマ皇帝へ
クラウディウス帝には、皇后メッサリナがいましたが、彼女は強欲で権勢欲が強く淫乱な女性であり、西暦48年ガイウス・シリウスと密通して重婚し皇帝殺害を企み発覚、クラウディウス帝に処刑されました。そしてクラウディウス帝の後妻としてネロの母であるアグリッピナが皇妃に昇格します。
元々、クラウディウス帝にはメッサリナとの間に生まれたブリタンニクスという後継者がいましたが、小アグリッピナは策略を巡らしてネロを皇帝の養子とします。
さらに、ネロとクラウディウス帝の娘のオクタヴィアと婚姻が成立。ブリタンニクスは疎外されネロは時期皇帝と目され、西暦54年にクラウディウス帝が死ぬとネロが第5代ローマ皇帝として即位しました。クラウディウス帝の死については、アグリッピナが首謀した毒殺とも言われます。
疎ましき実母を殺害し独裁者へ
即位したネロは、家庭教師でもあった哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカや近衛長官セクストゥス・アフラニウス・ブッルスの教えや政治の補佐を受けて名君の誉れが高かったのですが、即位から数年でネロを皇帝に就けた母アグリッピナとの確執が始まります。
ネロがアグリッピナの言う事を聞かなくなると、アグリッピナはかつて遠ざけたクラウディウス帝の子息、ブリタンニクスに目をつけ、ネロの首を挿げ替えようとしますが西暦55年にブリタンニクスは急死しました。ネロが毒殺したとも言われます。
アグリッピナは、何度も時期皇帝候補者に接近してクーデターを謀ろうとしネロが、母が決めた結婚相手の皇后オクタヴィアと離婚して、人妻ポッパエア・サビナと結婚しようとすると関係は断絶。
西暦59年、ネロはアグリッピナをボロ船に乗せて溺死させようとして失敗。その後母に謀反の罪をきせて死刑を宣告します。アグリッピナは死を覚悟し腹もしくは陰部を指して「刺すならここを刺せ!ネロはここから生まれたのだ」と悪態をつき殺されました。
実母を排除したネロは、ポッパエアの夫のオトをルシタニアへ左遷し、離婚したオクタヴィアには不倫の罪をきせて殺害します。
気に入らない者をドンドン処刑するネロ
母を殺し妻を殺したネロは吹っ切れたのか、西暦62年には法務官が宴席でネロの悪口を言っただけで死刑にし、パッラスを含む多くの元老院議員を処刑します。さらに64年にはローマ大火の犯人としてキリスト教徒を迫害、65年には家庭教師としていたセネカにも皇帝擁立計画に関与したとして殺害しました。
この豹変ぶりにネロは、当時のローマでコップから食器、水道管まで多用された鉛による中毒で性格が酷薄で残忍になったという説がありますが、鉛中毒による性格豹変は障害の一部に過ぎず、当時のローマ人全般にそんな症状が出たという記録はない事から、俗説に過ぎないようです。
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