本多忠勝の強さは異常!生涯に1つの傷も負わなかった豪傑の生涯


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本多忠勝

 

本多忠勝(ほんだただかつ)は徳川四天王の1人で徳川十六神将・徳川三傑に数えられる徳川を代表する猛将です。そんな忠勝の凄さは生涯に大小57回に及ぶ合戦に参加しながら、いずれの戦いにおいても傷を受けた事がないという点でしょう。

 

戦国の猛将と言えど何十年も戦えば、体は傷だらけ、指の2、3本は欠損しているのも当たり前な中、死ぬまで無傷とはどこまで強いのか?今回は本多忠勝の強さについて解説します。


天文17年本多忠高の長男として誕生

徳川家康

 

本多忠勝は通称を平八郎と言い、天文17年安祥松平家(あんじょうまつだいらけ)の最古参の安祥譜代(ふだい)本多氏の本多忠高(ほんだただたか)の長男として三河国額田郡蔵前(ぬかたぐんくらまえ)に誕生します。

 

虎といちゃつく織田信秀

 

父の本多忠高も小豆坂の戦いで織田信秀を破った剛の者でしたが、天文18年の第三次安城合戦で織田信広が守る安祥城を夜襲し戦果を挙げたものの翌日の戦いで流れ矢に当たり戦死します。23歳でした。

 

父を亡くしたまだ2歳の忠勝は、叔父の本多忠真の下で養育される事になります。幼くして徳川家康に仕えた本多忠勝は、永禄3年(1560年)に12歳で桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣を飾りました。

兵糧を運ぶ兵士

 

その後、徳川家康の最大のピンチとも言われる永禄6年(1563年)三河一向一揆では多くの本多一族が家康の敵になるなかで、忠勝は一向宗(浄土真宗)から浄土宗に改宗して家康側に残り武功を挙げ、永禄9年(1566年)には19歳で旗本先手役に抜擢され与力54騎を付属されました。以後の忠勝は、家康の居城の城下に住み、旗本部隊の将として活躍します。


徳川四天王としての活躍

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

本多忠勝は、元亀(げんき)元年(1570年)の姉川の戦いに参加し、家康本陣に迫る朝倉軍1万人に対して、無謀とも思える単騎駆けを敢行。

 

ここで、「忠勝を殺してはならぬ」と家康も本隊を率いて朝倉軍に突撃、同僚の榊原康政(さかきばらやすまさ)が朝倉軍の側面を突き、朝倉軍を打ち崩しています。姉川の戦いで忠勝は朝倉軍の豪傑、真柄十郎左衛門(まがらじゅうろうさえもん)と一騎打ちし勇名を馳せました。元亀3年(1572年)の二俣城の戦いの前哨戦である一言坂の戦いでは、偵察隊として先行していましたが、そこで武田本軍と遭遇します。

 

真田丸 武田信玄

 

本多忠勝は、報告の為に撤退を開始しますが、武田軍に追撃され、大久保忠佐と共に殿を務め、坂下という不利な地形に陣取りつつ、武田の猛将馬場信春(ばばのぶはる)の部隊を相手に奮戦して家康率いる本隊を逃がすのに成功しました。

 

さらに、同年12月の三方ヶ原の戦いでは、左翼を担当し山県昌景(やまがたまさかげ)隊と戦い撃退、また、犀ヶ崖(さいががけ)に陣取った武田軍に夜襲を掛け、武田軍を大混乱に陥らせて多数の死者を出させる武功を挙げました。

 

徳川を格下として見ていた武田家は、本多忠勝の奮戦を賞賛し、武田軍の小杉左近(こすぎさこん)は、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭と本多平八」と落首で褒めたそうです。

 

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武田キラーの意外な本音

長篠の戦い(鉄砲一斉射撃)

 

天正元年(1573年)の長篠城攻めでは、9月に堀越で榊原康政等と共に武田軍を破って長篠城に入城して城を守り、天正3年の長篠の戦い、天正8年の高天神城の奪還戦にも参加しました。これらの合戦における忠勝の活躍は、敵味方を問わずに賞賛され、家康も「まことに我が家の良将なり」と激賞しています。

敗北し倒れている兵士達b(モブ)

 

本多忠勝は武田キラーとして縦横無尽な活躍をしましたが、長篠合戦で多くの武田家の勇将が死んだ事を知り落ち込み、「武田の良将が多く死んでしまい残念だ。もうあのように血沸き肉躍る日々はやってこないだろう」と呟き、好敵手の死を惜しんだと言います。


伊賀越えで家康を守る

こっぴどく敗退する徳川家康

 

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変勃発、その頃、運悪く徳川家康は京都に近い堺にいて絶望のあまりに取り乱し京都に行って信長の後を追おうとします。

 

しかし、随行していた本多忠勝が「信長公に殉死して何になりましょう!本当に信長公に報いる気があるなら三河まで帰り軍勢を整えて明智日向を討つべきです」と諫言。

一向一揆(農民)

 

こうして、家康は伊賀越えを決行しましたが、本多忠勝等、徳川四天王は落ち武者狩りの一揆勢の首を200も取りました。この時、忠勝は帰路の途中の木曽川を船で渡った時、渡し終わった船の船底を槍の石突で突き破り、沈没させて追手が使用するのを防いだそうです。

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