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この記事の目次
江戸幕府開府に尽力
関ケ原の戦いに勝利した後、本多正信は、家康が将軍に就任する為に朝廷との交渉で尽力します。
さらに、この頃、本願寺で前法主教如と現法主、准如の兄弟が対立したので、正信はこれをチャンスと本願寺勢力の分裂を促すように家康に献策しました。元々は、熱心な一向一揆の門徒であった正信が、こういう献策を平気でするのが正信の凄味だと言えます。
慶長8年(1603年)に家康が将軍職に就任して江戸幕府を開府すると、家康の側近として幕政を主導するようになりました。徳川家康は慶長10年には将軍職を退いて、秀忠に2代将軍を譲り大御所となります。すると、正信は江戸の秀忠の下で幕政に参画し、慶長12年からは秀忠付の老中に就任します。
どうして、正信が大御所になった家康の下にいなかったのか不明ですが、秀忠を牽制して勝手な事をしないように家康に命じられたとも考えられます。
大坂の陣でも、家康に多くの献策をしましたが、老齢の為に体の自由が利かなくなり、後を息子の本多正純に譲り、家康の死後2カ月が経過した元和2年(1616年)6月7日に79歳で病死しました。
居眠り正信
徳川四天王に激しく嫌われた本多正信ですが、家康とは絶大な信頼で結ばれていたそうです。二人は、まさにあ・うんの呼吸であり、激しく議論しなくてもお互いの気持ちが分かったと言われています。
本多正信は、家康の意見に反対の時には、途中から目を閉じて眠ったふりをし、それに気づいた家康が意見を変えると、今、目を覚ましたように顔を上げて、家康の提案を誉めそやして持ち上げたそうです。
一歩間違えれば、バカにしてんのか!で手打ちになりそうですが、君臣は微妙な呼吸で、押し寄せる困難を乗り越えて徳川の天下を実現したのですね。
戦国時代ライターkawausoの独り言
単純な武人と違い、謀略の担当者は主君の信頼をつかむのが難しいものです。
日頃、陰湿な計略に手を染めているのですから、主君の疑いが自分にかかればそれを晴らすのは困難です。さらに、他の家臣にも距離を置かれるとなれば、任務が大変な割に報われない仕事であるとも言えるでしょうね。
正信が家康の信頼を維持するのも、人知れぬ大変な苦労があったのではないでしょうか?
(文:kawauso)
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