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司馬睿との亀裂
常識知らずの王敦でしたが、軍事ではとにかく強い。司馬睿に従わない江州の長官を討伐することを皮切りに活躍していきます。だが、やはり口は禍のもと。「王と馬と天下を共にす」と王敦は発言しました王は自分のこと。馬は司馬睿のことでした。
そんな話を聞けば司馬睿だっていい気はしません。次第にお気に入りの部下に政治を任せようと思うようになります。
代表的な人物は劉隗と刁協です。劉隗は前漢(前202年~後8年)の初代皇帝劉邦の末の弟の子孫と自称していますが、なんともウソ臭い・・・・・・。刁協は気性が激しく法家スタイルの政治家。王敦の従弟の王導の地元の人に気をつかう融和政策が嫌いでした。本当のことを言うと、司馬睿も法家主義の人物でした。仕方なく王導のやり方に従っていただけだったのです。
王敦の乱
王敦は放っておくと自分や従弟の王導が政治的危機に陥ると感じました。永昌元年(322年)になると王敦は「君側の奸」を除くとそ宣言して挙兵。
「君側の奸」は劉隗・刁協と名指ししました。怒った司馬睿は迎え撃つことにします。一方、王導は反乱に同調せずに自分は屋敷で裁きを待つことにします。
司馬睿は劉隗・刁協を王敦討伐に行かせますが逆に返り討ちにあいます。それどころか刁協は部下に殺害されることに発展。劉隗は北方の後趙(319年~351年)まで逃亡ました。
司馬睿は王敦に丞相の位を渡すことを約束しますが、王敦は首を縦に振りません。追い詰められた司馬睿は「そんなに皇帝の位が欲しければくれてやる!ただし、私は北に帰る!」と逆ギレ。
しかし王敦も簡単には動きません。この反乱はそんな欲望のために起こしたのではない、と人々に伝えるためでした。結局、司馬睿は心労が重なり永昌2年(323年)にこの世を去りました。
2度目の反乱
司馬睿の死後、後を継いだのは皇太子の司馬紹です。実は王敦の反乱の目的の1つは司馬紹を皇太子の座から降ろすこともありました。司馬紹は賢く、部下からの信頼も厚い人物でした。王敦は反乱を起こした時に皇太子を廃嫡することも命じています。
この件は部下の反対があったので頓挫しました。司馬紹が皇帝になると王敦は今度こそ皇帝の座を狙い進軍開始!都にまで迫り司馬紹を恫喝しました。慌てた司馬紹は王敦に揚州の長官の位を与えて、穏便に済ませました。
無念の死
王敦もあとは皇帝の位を譲られるのを待つだけでした。ところが太寧2年(324年)に王敦は突然、病気になります。危篤状態になった王敦に部下の銭鳳が語り掛けます。
「後継ぎはご子息の王応様でよろしいでしょうか?」
だが王敦は、「このような大事業は普通の人では出来ない。私の死後は軍団を解散して欲しい。このまま進軍するのは下策だ」
ところが銭鳳は進軍こそ上策と言う始末でした。それどころか王敦の部下の間で権力争いが起きます。脱出した部下が司馬紹のもとへ逃げ込んで王敦が皇帝の野望を抱いていることを通報。怒った司馬紹は出陣。
王敦は王導に内応を伝えますが、彼は王敦を無視して司馬紹を助けることを決意。王敦軍は次々と打ち破られて壊滅。王敦は敗北の最中に病死しました。享年59歳。ここに世間を騒がせた王敦の乱は終わりました。
晋代史ライター 晃の独り言 一夜にして1万回再生
先日、Youtubeで私が執筆した「どのみち劉封は劉備に処刑される運命だった理由」がアップされていました。
一夜にして1万回再生されていました。スゴイですね・・・・・・さすがに私もびっくりしました。この記事は自分も自信があったのですけど、まさかここまで反響が大きいとは思いませんでした。共感・批判がたくさんあって嬉しかったです。
読者・視聴者の皆様には誠に感謝しております。
文:晃
※参考文献
・井波律子『裏切者の中国史』(講談社選書メチエ 1997年)
・狩野直禎『三国時代の戦乱』(新人物往来社 1991年)
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