司馬炎の皇位は「譲ってもらったもの」?中国史のフシギな言葉「禅譲」の意味を考える

2020年2月14日


 

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簒奪する王莽

 

三国志ファンにはおなじみの言葉かもしれませんが、中国史には「禅譲(ぜんじょう
)
」という概念があります。今回は、三国志の物語の最終版に登場する一大イベント、「曹奐(そうかん
)
から司馬炎(しばえん)への禅譲」をおさらいしてみましょう!

 

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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そもそも「禅譲」とは?

皇帝に就任した曹丕

 

まず禅譲とは、皇帝の地位が、戦争やクーデターではなく、「平和的に先代から後代へと譲られること」です。もっと詳しく言うと、普通は帝位というものは親から子への世襲ですが、衰退している王朝の皇帝が、「私の子供たちには、どうも優秀な人間がいない。しかし部下の〇〇の一族は優秀な人材ぞろいだ。このさい思い切って皇帝の座を私の一族から部下の〇〇の一族に譲ってあげよう。私自身は家族とともに田舎にこもって政治活動からは引退することにしよう。王朝の名前も変えてしまうがよい」

 

漢失礼な兵士に官位を要求され困る献帝

 

と、英断をもって皇位を他家に渡してしまうことです。「禅譲」を受けた相手は、「いやいや、私には皇帝などはあまりにも責任が重く、恐れ多いです!」と最初は固辞するのも「おきまりの」パターンです。

 

「皇帝の位を君にあげるよ」

「いやいや、それは困ります」

「どうしても、君の一族に譲りたいのだ」

「困りますよ」

「いや、そこをなんとか」

「そうですか、どうしてもというなら、しかたありません、未熟者ではございますが、私がお引き受けしましょう」

 

皇帝曹奐

 

というやりとりは、一種の礼儀としてやらなくてはいけない雰囲気があります。そんな「禅譲」の正式なプロセスによって、平和的に皇帝の位についた代表例の一人が、曹操(そうそう)の子孫である曹奐(そうかん
)
から皇帝の座を穏便に譲ってもらった、司馬炎(しばえん)なのです!と、ここで「ン?」と思った方も多いのではないでしょうか。

 



ありとあらゆる場で「簒奪」と書かれる司馬炎の皇位継承はどこまで「禅譲」だったのか?

司馬炎(はじめての三国志)

 

というのも、司馬炎による晋王朝の誕生については、中国史上でどうも評判がよくない。司馬炎個人のみならず、司馬懿(しばい)以降の「司馬一族の権力」となると、これはもう「親子三世代にわたって周到に計画された皇位簒奪である」という言い方をされるのが、相場となっています。

 

三国志を統一した司馬炎

 

ところが司馬炎自身としては「いやあれは曹奐から禅譲された皇位だから」というのが、言い分のようです。ちなみにそもそもの「禅譲」というのは、三国志の時代よりもさらに古代の、いわゆる「堯舜(ぎょうしゅん)の時代」として語られる伝説の聖王たちの時代からの概念として語られるものです。

 

光武帝を解説する荀彧

 

「古代の人徳に溢れた王たちは、自分の一族の力が衰えてきたと考えると、きちんとけじめをつけて、自分の判断で平和的に他家に皇帝の座を譲っていた、古代の王たちは偉かった」というニュアンスで語られるものです。

 

同年小録(書物・書類)

 

当然、司馬炎が「あれは禅譲だった」と主張しているときも、「伝説の『堯舜の時代』と比較されても遜色ないような、礼儀にかなった、理想的な形で、皇帝の座を継承したのだ」というニュアンスを出したいのだと考えてよいでしょう。

 

司馬炎の皇位継承はどこまで平和的だったのか?場面を再現してみましょう!

女性に溺れる司馬炎

 

そんな司馬炎が曹奐から皇位を譲ってもらったプロセスとは、どのようなものだったのでしょうか?さまざまな史書や民間の言い伝えを編集して完成した『三国志演義』に、この経緯が物語としてかなりキレイにまとめられています。それをもとに、プロセスを再現してみると、以下のようになります。

 

反対する賈充

 

・ある日、司馬炎が部下の賈充(かじゅう
)
と話をしていたときに、「そういえば曹一族の曹丕(そうひ)って、どうして皇帝になったんだっけ?」と、突然言い出した

・賈充が「あれは漢王朝から『禅譲』されたのですよ」と指摘した

・司馬炎が「曹丕が漢王朝から禅譲されたのなら、オレが禅譲されたっていいよね?」と唐突なことを言い出した

 

曹髦の暗殺許可を出す賈充

 

・賈充も「あなた様が禅譲されたと天下に宣言すれば、民衆もみんな大喜びするでしょう!」と煽った

・喜んだ司馬炎は、剣をもって(!)曹奐の部屋にズカズカ入っていった

・驚いた曹奐がとにかく謁見の場を作ると、やおら司馬炎は「魏王朝って誰のおかげでできたんだっけ?」と言い始めた

・例によって覇気のない曹奐は、「それは、あなたのお爺さんやお父様の尽力があってのことですよ」とおべっかを言った

・司馬炎は「それにしても陛下には、政治を論ずる頭もなければ、戦に出て武威を示す力もない。百に一つも才能はない。いっそ有能な人に禅譲してみるのはどうですか」とずけずけと言った

・傍にいた、曹奐の部下の張節というものが「それは曹奐様に失礼だろう!」と激怒した

・司馬炎はすかさず自分の部下に命じて、張節をこん棒でボコボコに殴って惨殺させた

・曹奐は泣き出して、「さっそく禅譲の儀式の準備をいたしましょう」となった

 

まとめ:曹奐を殺害しなかっただけでも司馬炎は「マシ」ともいえる

孔明

 

「どこが禅譲だよ!」とツッコミをいれたくなるのは私だけではないはず。なんというイヤな後味のエピソードでしょうか。

 

暗殺に成功する聶政

 

しかし司馬炎については確かに擁護できるところもあります。パターンとしては、こうやって「禅譲」をさせられた後の皇帝というのは、田舎に隠居した後に刺客が差し向けられ不審死するケースも「おおいにアリ」なはずなのですが、どうやら曹奐もその子供たちも、都に出てくることは禁止された模様ながら、地方に引っ込んで名士としてかなり安泰に暮らせたように見えるのです。

 

孫晧(孫皓)

 

少なくとも謀殺や暗殺の記録は一切ない。そういえば司馬炎は、その後、なんだかんだ劉禅(りゅうぜん)孫晧(そんこう
)
も存命させてしまっています。存外、相手が貴人なら殺さないところのある司馬炎(張節(ちょうせつ)あたりの身分には容赦ないとはいえ)。

 

三国志ライター YASHIROの独り言

三国志ライター YASHIRO

 

この男は董卓(とうたく)あたりの強烈な人物と比較すれば、そうとうに「マシ」だったともいえるわけで、この司馬炎にさっさと「禅譲」をして引退をした曹奐は賢い選択をしたのかもしれませんね。あの世で曹操おじいちゃんは激怒しているかもしれませんが。

 

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英雄の死因

 

 

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とにかく小説を読むのが好き。吉川英治の三国志と、司馬遼太郎の戦国・幕末明治ものと、シュテファン・ツヴァイクの作品を読み耽っているうちに、青春を終えておりました。史実とフィクションのバランスが取れた歴史小説が一番の好みです。 好きな歴史人物: タレーラン(ナポレオンの外務大臣) 何か一言: 中国史だけでなく、広く世界史一般が好きなので、大きな世界史の流れの中での三国時代の魅力をわかりやすく、伝えていきたいと思います

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