テンプル騎士団とは、中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会で正式名称は「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち」と言い神殿がテンプルなのでテンプル騎士団と呼ばれます。
元々、テンプル騎士団は十字軍の聖地奪還作戦が成功した後に、エルサレム防衛と聖地巡礼の旅人を守る為に結成され、西暦1119年から1307年にフランスで壊滅するまで188年続きました。しかし、最初は清貧な修道騎士団として始まったテンプル騎士団は、欧州有数の金融組織になり、その為に滅んでしまう運命を辿るのです。
一体、どうしてそうなったのでしょうか?
この記事の目次
エルサレム王国が建国されるが騎士は故郷に帰る
テンプル騎士団の設立には、第一回十字軍の成功が関係しています。
西暦1096年に宗教的熱狂に支えられた欧州の騎士たちは、イスラム勢力の支配下にあった聖地エルサレムに攻め込みこれを奪い返しました。エルサレムは、西暦320年頃にコンスタンティヌス1世の母太后である聖ヘレナが巡礼を行ったことでキリスト教の聖地化していたのですが、西暦638年にアラブ勢力により奪われていたのです。
ここまではいいのですが、キリスト教国には困った事が起きました。聖地奪回を実現したキリスト教国の騎士は、それで満足して続々とエルサレムから帰還してしまい、建国されたエルサレム王国は深刻な兵力不足に悩みました。
聖地巡礼者を守る為にテンプル騎士団が結成
西暦1119年、聖地防衛を憂慮したフランス貴族、ユーグ・ド・パイヤンの元に9人の騎士が集まり聖地への巡礼者を保護する名目で活動を開始します。これを喜んだエルサレム王国のボードヴァン2世は、彼らの宿舎として神殿の丘を与えます。元々、この丘にはソロモン王が建設したエルサレム神殿があったという伝承があり、そこから9人の騎士団はテンプル騎士団と呼ばれました。
ユーグ・ド・パイヤンは、テンプル騎士団を大きくしようと考え、ヨハネ騎士団のような修道会ととして認可されようと運動を開始し、当時の宗教界の大物、クレルヴォーのベルナルドゥスに会則と教皇庁への取りなしを依頼します。
ベルナルドゥスはテンプル騎士団のために尽力し、1128年1月13日フランスのトロアで行われた教会会議において、教皇ホノリウス2世はテンプル騎士団を騎士修道会として認可します。
教皇のお墨付きで巨大化するテンプル騎士団
教皇のお墨付きに加え、当時の欧州の貴族の間には聖地維持の為になんらかの貢献をしたいという機運がありました。やるだけやって放り出した良心の呵責が多分あったのでしょう。
かくして、フランス国王を中心に多くの寄付・寄進がテンプル騎士団に集まり、それに加えてテンプル騎士団への加入者も増加して兵力が増えます。さらに、西暦1139年に教皇インノケンティウス2世が、テンプル騎士団に国境通過の自由、課税禁止、教皇以外の君主や司教への義務の免除など多くの特権を付与。これによりテンプル騎士団は治外法権を得るようになり、勢力を拡大するようになります。
十字軍の戦いで活躍
テンプル騎士団は、1147年の第二回十字軍に際し、フランスのルイ7世を助けて奮闘したため十字軍の終了後、ルイ7世はパリ郊外の広大な土地をテンプル騎士団に寄贈。ここが、テンプル騎士団の西欧における拠点になりました。
この拠点は、壮麗な居館のまわりに城壁を巡らした城砦に近い造りで、教皇や外国君主の迎賓館として使われ、さらに王室の財産や通貨の保管まで任されるようになります。
西暦1163年には、教皇アレクサンデル3世が自らの選出に際し尽力したテンプル騎士団に報いる形で回勅を出し、修道会の財産と聖座による保護、司教からの独立など特権を重ねて付与しました。
テンプル騎士団の強さは伝説的であり、捕虜になる位なら死を望むという鉄の誓いのもとで、連戦連勝し1177年のモンジザールの戦いでサラーフ・アッディーンの率いるイスラム軍を撃退、フィリップ2世やイングランドのリチャード1世とも共闘。イベリア半島でも対ムスリム勢力戦に従事して名声を馳せました。
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