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この記事の目次
夫婦仲が悪くなる
建安13年(208年)に曹操は丞相になりました。曹操はやっぱり司馬懿を諦めきれません。そこでもう一度スカウトします。とうとう曹操は「司馬懿が、グダグダ言うのなら首に縄をつけてでも連れてこい」と命令します。司馬懿も根負けして曹操に仕えることにしました。
司馬懿は曹操の息子である曹丕に仕えて側近に任命されました。このように昇進を重ねた司馬懿はやがて側室に柏夫人を迎え入れます。しかし、これが原因で張春華との間はすっかり冷めきってしまいました。張春華は何も語っていませんが、「誰のおかげで今の地位があると思っているの?」と主張したいのかもしれません。
高齢出産
張春華は当時としては珍しく高齢出産を行っています。彼女の子は司馬師・司馬昭が有名ですが、もう1人います。名前は司馬榦。張春華が司馬榦を出産したのは魏の太和6年(232年)です。つまり、彼女は44歳の時に生んでいます。現代ならばあってもおかしくないですが、当時はかなり母体に危険性があることです。そのため司馬榦は司馬懿と張春華との子ではないという説もあります。
夫婦仲も枯れススキ
ある日、司馬懿が病気で倒れてしまいました。この時に心配した張春華が見舞いに現れます。冷え切った夫婦仲とはいえ、やはり夫のことが心配なのですね。だが司馬懿は、「何しに来たんだよ、ババア!」と暴言を吐きます。よほど見たくなかったのでしょうね。
張春華も悔しかったのか司馬師と司馬昭、司馬榦を巻き込んで、断食して自殺しようと企みました。巻き添えくらった司馬師と司馬昭が可哀そう・・・・・・
話を聞いた司馬懿は「スイマセン」と謝罪して騒動は終わります。ところが部屋から出る時に、「別にババアの命なんでどうでもいいよ。かわいい俺の息子たちの命の方が心配だから止めたんだよ」と人に話していました。
さよなら、張春華
正始8年(247年)に病に倒れた張春華は、そのまま帰らぬ人になりました。享年59歳でした。彼女が亡くなったことに対して司馬懿のコメントは何もありません。司馬懿はこの当時、政敵である曹爽をダマすために仮病を使って一時的な政界引退をしていたのです。
1人の女のために涙を流しているヒマはありませんでした。司馬懿の死後、息子の司馬師が「広平県君」を、司馬昭が「穆妃」と位を贈りました。育ててくれた感謝の印と見て間違いありません。西晋(265年~316年)が建国されると司馬炎から皇后の位を贈られました。
三国志ライター 晃の独り言
以上が司馬懿と張春華についての解説でした。末弘氏のマンガ『漢晋春秋司馬仲達伝三国志 しばちゅうさん』では仲のよい夫婦として描かれている2人ですが、史実ではかなりシビアな関係だったことが分かりました。
私は結婚していないので夫婦関係とは分かりませんが、長い間一緒にいると、お互いの良いところではなく嫌なところしか見えなくなるのでしょう。司馬懿と張春華の2人もおそらく、それで嫌気がさしたのでしょうか?
※参考文献
・井波律子『裏切者の中国史』(講談社選書メチエ 1997年)
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