司馬昭とは三国志の中でどのような役割を果たしているのか?

2019年9月12日


 

司馬昭

 

司馬昭(しばしょう)は西晋(280年~316年)の初代皇帝司馬炎(しばえん)の父です。

 

司馬懿、司馬師、司馬昭

 

父の司馬懿しばい)・兄の司馬師(しばし)と一緒に(220年~265年)に仕えていました。

 

降伏する劉禅

 

魏の景元4年(263年)に鄧艾(とうがい)鍾会(しょうかい)に命じて蜀(221年~263年)を滅ぼします。咸熙2年(265年)には魏の最後の皇帝である曹奐(そうかん)に皇帝位を譲ってもらおうとしますが、その直前に亡くなりました。司馬昭は名前は有名であり、ゲームやマンガ、ドラマにもよく登場するのですが、どのような人物か分かっていません。そこで今回は司馬昭について解説いたします。

 

自称・皇帝
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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司馬懿の次男として誕生

司馬昭と司馬師

 

司馬昭は建安16年(211年)に司馬懿の次男として誕生しました。母は張春華、兄は司馬師、他に7人の弟がいますが全て異母弟です。若い時の司馬昭については記録が残っていません。小説『三国志演義』では諸葛亮の第1次北伐から従軍したことになっていますが、どうやら創作のようです。

 

諸葛誕を攻める司馬昭

 

史実の司馬昭は魏の正始5年(244年)の曹爽(そうそう)の蜀攻撃(興平の役)が出陣。これが確認がとれる限り初陣と考えられています。蜀将の王林(おうりん)が司馬昭の陣に夜襲をかけますが司馬昭は見事に防戦しました。

 

曹爽

 

しかし、長期戦になり魏にとって不利な状況に陥ったので司馬昭は曹爽に撤退を提案しています。曹爽の派閥に所属する李勝などは徹底抗戦を主張しますが、最終的には撤退となりました。

 

正始の政変で父に協力

司馬懿と曹爽

 

さて、曹爽は司馬懿から権力を取り上げて実権の無い太傅という位を与えていました。ところが、正始10年(249年)に司馬懿は曹爽から権力を取り戻すためにクーデターを起こします。

 

洛陽城

 

これを「正始の政変」と言います。この時、司馬昭も兵士を率いて洛陽の西宮と永寧宮の守備に回りましたが、父のクーデターの詳細な件は知らなかったようです。司馬昭が本当に知らなかったのは分かりませんが、曹爽は「免官だけで済ませる」という誘いに負けて降伏。

もちろん計略に長けた司馬懿は、曹爽やその一派を処刑しました。

 

前代未聞!!皇帝殺害事件発生

眼球が取れる司馬師

 

やがて魏の嘉平3年(251年)には司馬懿が、正元2年(255年)には兄の司馬師が亡くなって司馬昭が司馬氏の家督を継ぎました。

 

曹髦

 

この時の魏の皇帝は第4代皇帝曹髦(そうぼう
)
です。曹髦は幼い頃から将来を期待されており、鍾会から「才能は曹植(そうしょく)・武勇は曹操(そうそう)」と言われていました。曹髦は皇帝でありますが実権は司馬昭に奪われています。

 

曹髦の暗殺許可を出す賈充

 

もちろん、そんなことは皇帝として許せなかったので権力を司馬昭から奪還しようと考えて曹髦は側近の王経・王業・王沈に相談しました。だが、相談された王業・王沈は自分たちに被害が及ぶことを恐れてすぐに司馬昭のもとに駆け込みます。

 

計画がばれた曹髦はもう腹をくくります。甘露5年(260年)曹髦は兵士を率いて司馬昭に立ち向かっていきました。ところが、立ちはだかるのは司馬昭の側近の賈充

 

皇帝の位を降ろされる曹髦

 

賈充は迎え撃つも形勢不利に陥りました。さすが曹髦は曹操と比較されるだけあって強いです。敵が手強いと思った賈充は部下を叱咤激励します「司馬昭様がお前たちを養ってきたのは、こんな日のためだ!後のこと(罪)は問題にせん!」それを聞いた成済という人物が飛び出て曹髦を刺し殺しました。

 

皇帝殺害事件・・・・・・まさかの結末

王基に感謝する司馬昭

 

こうして戦いは終わり司馬昭の勝利します。

 

キラー陳泰

 

これにて一件落着・・・・・・と思ったら大間違い。陳泰(ちんたい)という人物が皇帝殺害という前代未聞の事態にびっくりして泣き崩れます。陳泰は司馬懿と一緒に曹丕(そうひ)から後を託された陳羣の息子です。

 

軍会議で的確に作戦指示を出す陳泰

 

陳泰は「軍の指揮をしていた賈充を殺さないとダメだ!」と言います。一方、司馬昭は賈充が大切な仲間なのでそれは出来ません。そこで曹髦を殺した「実行犯」の成済を処刑して責任をとらせることにしました。

 

一方、成済は納得がいかず肌脱ぎになって罵声をあげて大暴れ!まさに「話が違う!」という感じです。結局、成済は追い詰められて射殺されました。

いつの時代も上司の責任をとらされるのは部下に変わらないのです・・・・・・

 

お兄さん思いの司馬昭

司馬昭

 

司馬昭は晩年、長男と司馬炎と三男の司馬攸のどちらを後継者にしようか悩んだのです。普通に考えたら司馬炎に継がせるだけなので、何も悩む必要はありません。

司馬昭が悩んでいたのは、兄の司馬師の家督のことでした。

 

司馬攸

 

司馬師は子がいませんでした。そのため司馬昭は司馬攸(しばゆう
)
を養子に出していました。だから、司馬攸は司馬師の家督を継いでいるのです。司馬昭は自分の家督よりも兄の家督を優先させた方がよいのでは、と考えました。

 

司馬昭はお兄さんのことが好きだったのでしょう。だが、部下一同は「ちょっと待ってください」と声をあげて反対しました。

 

斉王になる司馬攸

 

結局、部下からの説得により司馬昭は司馬炎を後継者となり西晋を建国したのです。司馬攸は斉王に封建されました。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

司馬炎は皇帝になりますが、自分の子供が皇帝としての力量が無いと分かるとかつて後継者争いをした司馬攸に家督を継ごうと考えました。かつてのわだかまりを無くそうとしたのです。血のつながった兄弟の愛情というものは美しい。

 

ところが、残念ながらこの計画は皇后や部下の手により闇に葬られました。司馬攸は不遇の生涯を閉じることになります。なんだか悔しい話ですね・・・・・・

 

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三国志(220年~280年)・宋代(960年~1279年)・水滸伝に興味がある読者の皆様は、何か一言や疑問を残していただけると嬉しいです。

 

※参考文献

・渡邉義浩「司馬氏の台頭と西晋の建国」(初出2007年 のち『西晋「儒教国家」と貴族制』所収 汲古書院 2011年)

 

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李傕・郭汜祭り

 

 

 

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