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この記事の目次
実はかなりはっちゃけていた孫権
正史三国志にお馴染みの方は良く知っていることと思いますが、実は孫権は割とはっちゃけていた性格を伺わせる逸話が多々あります。例えばお酒の席。
孫権は度々酒宴を開いてはそのドン引きするほどの酒乱っぷりを見せつけてくれます。部下にお酒を無理やり飲まそうとするのはいつものこと、酔い潰れた部下に水をかけてたたき起こし、更にお酒を飲ませる……もはやパワハラです。
現代で言うならアルコールハラスメントと言っても良いでしょう。しかしそんな孫権も野放しになっていた訳ではありません、度々口うるさい……いえ、正しく指導してくれる存在、張昭がいました。
孫権の晩年の行動について
前述したアルハライベントでも張昭は孫権の行動に怒って帰り、後に孫権はその行動を(一時的にかもしれませんが…)反省して改めています。張昭は孫権よりもかなり年上でしたが、良く孫権を諫めました。
孫権も孫権で聞き入れたり反抗したりと結果は様々でしたが、筆者的には孫権にとって張昭は口うるさく煙たいけれど、ありがたい存在でもあったのではと思っています。と言うのも張昭は236年に没し、孫権の問題行動である呂壱事件や二宮の変などといった擁護しきれない問題行動が起こるのはこの後からなのです。
張昭の孫権への思い
そんな張昭ですが、赤壁で降伏派だったことをよりによって孫権から後に言われてしまう逸話があります。しかし赤壁での降伏か、交戦かは、個人的にはどちらもダメな判断ではないと思っています。
孫権の身を一番に考えるならば降伏はあの時点で一番現実味があったでしょう。例え天下は狙えずとも、後に曹操の元で呉王を任される可能性も考えられたと思います。
筆者は張昭は孫権の身を考え、周瑜は孫権、というよりも孫家の天下を一番に考えて行動したのではと思うのです。どちらが悪く、どちらが正しい判断ではなく、あくまで考え方と一番優先すべき事柄が違ったのであったのだと思います。
だからこの時、張昭はあくまで孫権自身の身を案じたと考えると……口うるさいおじいちゃんですが、張昭もまた孫権のことを誰よりも案じていたのだと思うのですよね。そして孫権もまた煙たがりながらも張昭のことを信頼していたのでは……と思わずにはいられないのです。
三国志ライター センのひとりごと
晩年の孫権は問題行動が多く、三国志演義から正史三国志を知ると驚くことが多くあります。でもその行動の多くは制御してくれる人がいなくなったからでは……とも思ってしまうのですよね。
今回紹介した張昭や、諸葛瑾の亡き後に暴走してしまった孫権を思うと、あの問題行動の数々がより一層ものがなしさを感じずにはいられません。呉の滅亡までは三国志演義ではあまり語られませんが、まだ知らない人はぜひそのもの悲しい過程の事件の数々を知ってみて下さいね。
参考文献:呉書呉主伝 張昭伝
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