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この記事の目次
「姫路城」は平山城の代表格
平山城とは、平野の中にある山(というより丘といった方が良いかも)や丘陵に築城された城のことを指します。戦国時代までは戦のための防御が城の最大の目的であったため、山城が主流でしたが、戦国時代末期から江戸時代初期になると、政務を行う場所、経済の中心地という色が濃くなっていったため、山に城を築くことは減っていきました。
ちなみに日本三大平山城ってあるんですね。津山城、姫路城、松山城なんだそうです。さすが「三大なんとか」が大好きな日本人ですね。「姫路城」は姫路市街の北側にある姫山と鷺山に築かれています。それほど高い山ではありませんが、南側に遮るような山はなく、特に西南方面からは遠くからでもよく見えたでしょう。城からの監視もやりやすかったのではないでしょうか。名古屋城の立地は、京都方面から関ヶ原を通り、西北方面からの敵を想定した立地ですし、仙台・青葉城は北東方面に睨みを利かせています。
国土地理院が提供している、日本の国土の高低差がわかるウェブ地図があるのですが、これを観ながら「城」が築城された意味や、仮想敵国などを想像するのは、歴史好きには至福のひとときになるのではないかと思います。
地理院地図 / GSI Maps|国土地理院(外部リンク)
何故「姫路城」は「江戸城」のロケ地に選ばれるのか
戦国時代の城は黒い色が主流であり、豊臣秀吉が築城した大阪城ももちろんそうです。黒い色には理由があります。風雨や虫害を防ぐために、炭や黒漆、柿渋を塗った板を貼り付けていたため、そのような色になるわけです。
関ヶ原の戦いが終わり、世の中が徳川幕府の統治、平和の時代へと移り変わりつつある頃に、徳川家康の命で築城された「江戸城」と「姫路城」が共に白い色で築城されたのは偶然ではありません。徳川家康は時代の移り変わりの象徴として、意図的に白い色にしたのだと言われています。白い色の秘密は外部の全表面を漆喰で仕上げる「白漆喰総塗籠」という技術。
これは江戸城築城の大工棟梁であった中井大和守が開発した新技術であり、戦国時代にはなかった技法です。また、この二つの城は防御に重点を置いた、大天守を複数の小天守が囲む設計であることも似ている大きな要素のひとつです。こういった理由から、「姫路城」と「江戸城」の容姿はそっくりなわけですね。そういった歴史的事実にのっとって、確かな根拠の元に「姫路城」を「江戸城」のロケ地として使用したわけなんです。
戦火で落ちた爆弾が不発!奇跡を起こした城への「愛」
江戸城や名古屋城、仙台・青葉城など、廃城令を免れて昔の姿を残していた「城」の多くは、太平洋戦争の「戦火」で燃えてしまいました。しかし、姫路城は「戦火」を免れています。実はこれにはいくつかの「奇跡」的な出来事が関わっています。
【その1:レーダーには「沼地か湖」と認識されていた】
当時のレーダーはそれほど正確な認識ができなかったようですが、アメリカ兵の証言によると「姫路城」のあった場所は「沼地か湖」と認識されていたようです。理由は城を取り囲んでいた「お堀」。だったら他の城たちもそのように認識されてもおかしくはないと思うですが、真相は定かではありません。
【その2:天守閣に直撃した焼夷弾が不発弾だった】
元士官の証言で、「大天守最上階南側の床に焼夷弾の不発弾が横たわっていたので、場外に運び出して爆破した」という記録が残っています。もし爆発していたら、着火した油が炸裂していた筈なので、城の内部から火災が起こっていました。いくら「白漆喰総塗籠」が石灰由来の材料で出来ているので火災に強いといっても、内部から燃えてしまったのではたまったものではありません。確実に焼失していたでしょうから、爆発しなかったのは正に奇跡としか言いようがありません。
しかし一番読者の皆様にお伝えしたいのは、地元の人達の「姫路城」に対する、なみなみならぬ愛情です。太平洋戦争当時、「姫路城」の周辺には軍の師団本部や軍需工場があり、空襲の危険に晒されていました。そんな状況の中、市民は「姫路城」が爆撃の目標とならないために、コールタールで黒く染めたわら縄を編んで偽装用の網をつくって外壁につるしました。
直近の改修前まで、外壁には20本程打ち込まれた釘が残っていました。戦火で食べるものもなく、日々の生活で疲弊しているはずなのに、「姫路城」が焼失してしまうことを心配し、大勢の方が「姫路城」を守ろうと努力したという、この気持ちが「奇跡」を起こしたのではないかと思うわけです。
増築が続いた「姫路城」は石垣の歴史の博物館
石垣しか残っていない城跡などが多い中、あれほど立派な天守閣が目の前にありますので、なかなかその土台である地味な存在の石垣には目がいかないのは仕方がないことかなと思います。ですが、長きにわたって増築され続けた「姫路城」ならではの、時代によった石垣づくりの技術の変化を愉しむことが出来るのです。
【その1:羽柴秀吉の時代:1580年頃】
後に御紹介します、お菊井戸のある「上山里」の下段にある石垣は、加工した石ではなく、自然の石をそのまま積んでいく「野面積み」で造られています。もともと砦のような状態であった場所に本格的な石垣と三重の天守を建築し、中国攻めの拠点とした豊臣秀吉の強い思いが石垣から感じられます。
【その2:池田輝政の時代:1609年頃】
8年をかけた大改築。この時に造られた石垣は、加工した石を隙間なく使用していく「打込みハギ」の技法が用いられています。角を下にした「落し積み」の技法も使用されており、「野面積み」と比べると明らかに整然とした表面になっています。こうしてみると、戦国時代から江戸時代に変わる時期に、「城」の役割と共に石垣建造の技術革新が大きく進んだことがよくわかります。
また、城の石垣には「鏡石」と呼ばれる大きな石を意図的に配置することがあります。威厳や経済力の象徴という役割以外に呪術的な意味もあると言われています。先ほどご紹介した「上山里」から下って行った「ぬの門」の右側には「人面石」と呼ばれる鏡石や、「ハートの形の石」があります。特に「ハートの形の石」はスマホの待ち受けにすると良いことがあるという噂が広まり、人気スポットになっているようです。
また、石垣の中には石材の提供者や工事者の区分の為に、刻印された石もあります。「姫路城」で言えば「大手門」の左側、一番上の石には「斧(おの)」の形の刻印が刻まれています。訪れた際には探してみてはいかがでしょうか。
今でいう都市伝説?宮本武蔵や播州皿屋敷など
400年以上の間続いている「姫路城」には、今でいう都市伝説的な様々な噂話が存在しています。
【その1:籠城への備え?天守閣にトイレがある】
「姫路城」の「大天守」は地上6階、地下1階の建造物ですが、地下1階の部分は「穴蔵」と呼ばれており、東北側の隅に「厠」、つまりトイレが3つ並んでいます。しかし、一度も使われた痕跡ないそうです。一体、何のために造られたんでしょう。一説には籠城向けの水の貯蔵庫だったのではないかとも言われているようですが、真実は謎のままです。
【その2:築城した棟梁が出来栄えに悲観して自殺??】
「姫路城」築城を指揮していたのは棟梁の桜井源兵衛さんでした。完成間近となり、日頃完成を心待ちにしていた奥様を現場に連れてきた際、奥様は最初は感心しきりに眺めていたのですが、「どことなく南東に傾いているのではないか。」と、ふと言ってしまったそうです。これを聞いた棟梁は自分の目で確認してみたところ、本当に傾いていることに気付き、設計ミスを悲観するようになってしまいます。
そしてついには天守閣の最上階から口にノミを加え、身を投げて死んでしまいました。この逸話ですが、今ではフィクションではないかと言われています。本当の原因は「姫路城」を支える心柱の礎石の地盤が沈下したためであり、設計ミスではありません。
江戸後期になり、「姫路城」の傾きを心配した市民たちの間で、「東に傾く姫路の城、花のお江戸が恋しいか」という唄が流行したそうなのですが、その時自然発生的にこの話が出来たのではないか、というのです。一説には、城の弱点を知り尽くしている棟梁が邪魔だったので暗殺したとも言われているようですが、真実は謎のままです。
【その3:播州皿屋敷の舞台となった井戸がある】
幽霊が井戸で夜な夜な「いちまーい、にまーい」と皿を数える、という昔から伝わる怪談を聞いたことはありませんか。「播州皿屋敷」という名で、なんと歌舞伎でも演じられています。その舞台となったのが、前述した「姫路城」の上山里(かみのやまさと)とよばれる広場にある、お菊井戸だと言われています。
【その4:宮本武蔵と妖怪伝説】
1584年に播磨の国に生まれた宮本武蔵ですが、「姫路城」で足軽奉公をしていた際、天守に出没している妖怪を退治したという伝説が残っています。といっても、宮本武蔵に恐れをなした妖怪が逃げ出していったということで戦ったわけではありません。一説には「姫路城」の守り神であった刑部明神(おさかべみょうじん)が、妖怪退治の褒美として郷義弘(ごうのよしひろ)という名刀を与えたとのことですが、真実は謎のままです。
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