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この記事の目次
陳寿は不遇か?
一般に陳寿は不遇な歴史家と言われています。蜀の官僚だった時は宦官の黄皓や諸葛亮の息子である諸葛瞻から疎まれたりしています。また、父の服喪中に体調を崩したらしく風邪薬を処方してもらい服用しますが、それを客人に見られて故郷の人々から「親不孝者」の烙印を押されました。どうやら陳寿は親の服喪中に問題を起こす癖があるようです。
ちなみに儒教社会では親が死んだ時は、気絶するまで泣くのが最高級の親孝行とされていました。また、西晋においては呉の討伐論者である張華の派閥に所属していたことから、出世が閉ざされたことも不遇の要因の1つとされています。
そして不遇の最大の要因とされているのは、正史『三国志』執筆にあたり、陳寿自身は蜀を正統としながらも、西晋に仕える役人として魏を正統と扱わなければいけなかったことにありました。
この話は清(1644年~1911年)の時代から有名であり、現代でも信じている研究者はいます。ところが、陳寿の不遇説には疑問が残る個所がいくつも存在していたのでした。
存在しなかった陳寿と黄皓の対立
まず陳寿が蜀の官僚時代に黄皓と対立した話。出典は『晋書』ですが、この書物は唐(618年~907年)の編纂物であり、内容も物語のようなものが混じっており史料価値が低いのです。
それでは陳寿について書かれているもう1つの書物『華陽国志』はどうでしょうか?こちらは東晋(317年~420年)に編纂されたものであり、史料価値が高いもので有名です。だが、陳寿と黄皓の対立は全く記されていません。要するに陳寿と黄皓の対立は後世の歴史家の捏造と言われています。
実は出世していた陳寿
一般の概説書で陳寿は出世が出来なかったと言われています。確かに呉の討伐論者である張華・杜預に味方をしたことから、荀勗に疎まれて出世の道が閉ざされたのは事実でした。
ただし、陳寿の官歴を見ると必ずしも出世していないとは言い切れません。西晋で陳寿は佐著作郎という七品の官位からスタートしています。この官位は西晋では出世コースに当たりました。
その後、地方に左遷されますが郡太守(五品)になります。最終的には中央官である太子中庶子(五品)にまでなりました。太子中庶子は将来の皇帝側近です。現代の日本で例えるのなら、首相補佐官のような存在。陳寿はそこまでの位まで昇っていたのです。残念ながら皇太子が失脚したので、陳寿は辞退しています。
西晋第2代皇帝恵帝も陳寿の才能を称賛していました。また、陳寿のパトロンである張華も名誉職である九卿を彼にあげる予定にしていたのです。この計画は張華の失脚と死で頓挫します。こうしてみると、陳寿は出世していないどころか、蜀の生き残りの官僚の中では大出世しているのではないでしょうか?
政治家・歴史家としても勝ち組!
こうしてみると陳寿は幸せな人生だったのかもしれません。政治家人生の後半は荀勗から疎まれてしまいますが、政治家人生のほとんどが出世で終わっています。
また、他の歴史家と比較してもどうでしょうか?『史記』の著者である司馬遷少し友人をかばった程度で宮刑にされていますし、『漢書』の著者である班固も政治闘争に巻き込まれて獄死、『後漢書』の著者の范曄も反逆罪で死罪。
彼らに比べると陳寿は幸せな人生であり「不遇」な歴史家ではなかったのです。それどころか、陳寿は処世術に長けた政治家でした。忘れてはいけないのは陳寿の本業は歴史家ではなく、政治家なのです!
三国志ライター 晃の独り言
陳寿は生前から悪い噂の絶えない歴史家でした。今回紹介した父の喪に服している最中に薬を飲んだ事件や母の遺体を故郷に葬らなかった事件もその1つです。
中国の研究者たちは、これらの事件は出世出来なかった蜀の官僚たちがばら撒いた噂の可能性があると言っています。もちろん確たる証拠はありませんけど・・・・・・
※参考文献
・田中靖彦「陳寿の処世と『三国志』」(初出2011年 後に『中国知識人の三国志像』研文出版 2015年所収)
・増井経夫『中国の歴史書 中国史学史』(刀水書房 1984年)
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