陳寿の曹操アゲ発覚!官渡の戦いの曹操軍は1万人じゃない?

2020年5月19日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

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陳寿(晋)

 

陳寿(ちんじゅ)の正史三国志は、曹操悪玉史観が定着する前の史料なので比較的公平に曹操についても記されていると評価されています。しかし、そうは言っても陳寿は曹魏から禅譲(ぜんじょう)を受けて建国された晋の官僚であり、晋の正当性を高める為に曹魏の事績を盛るという事は、所々でやっていました。それは曹操が兵力の劣勢を覆し袁紹に勝利したとされる官渡の戦いでもそうだったのです。

 

よく見るとオカシな曹軍1万vs袁軍十数万

兵士 朝まで三国志

 

三国志武帝紀によると、袁紹(えんしょう)公孫瓚(こうそんさん)の軍勢を破って四州を併呑し、兵力十数万と書かれています。そしていよいよ曹操を一飲みにしようと許に進軍を開始しました。一方で、曹操の軍勢は官渡で籠城している段階で1万人に満たず、しかも負傷者は20%から30%でおまけに食糧に乏しいとされています。

病気になった兵士

 

確かにこの部分だけ見ると、大軍で官渡城の曹操軍を押しつぶそうとする袁紹に対し、1万以下で負傷者2~3割の曹操は青色吐息(あおいろといき)のように見えますね。これで勝利したのであれば、控えめに見ても、まさに神算鬼謀(しんさんきぼう)、奇跡の逆転勝利でしょう。でも、この兵力差、よく正史三国志を読んでみると、オカシな部分だらけなのです。

 

袁紹の兵力と曹操の兵力はカウントの時期が違う

内容に納得がいかないkawauso様

 

そもそも、この袁紹軍十数万に対し、曹操軍1万未満というのは同時期に計算したものではありません。袁紹軍十数万とは官渡決戦の直前の西暦200年2月の兵力です。これから許に進軍しようというのですから、兵力が多いのは至極当然と言えます。

行軍する兵士達b(モブ)

 

逆に、曹操軍が1万未満というのは、白馬(はくば)延津(えんしん)の戦いで袁紹を撃破し、その後袁紹の兵力とにらみ合い官渡城に籠城した西暦200年8月の兵力で半年も経過しています。

敗北し倒れている兵士達b(モブ)

 

つまり、陳寿は袁紹については開戦前の兵力を記述し、曹操については戦いが佳境に近づき、かなり負傷兵が出た状態の兵力でカウントしています。これでは曹操の兵力がより少なく、袁紹の兵力がより多くなるのは当然で、陳寿の統計は当てにならないのです。

 

陳寿が意図的でないとしても、この時期をずらした兵力のカウントは他人に誤読を誘発するので、感心できないやり方です。

 

if三国志

 

時系列でみると兵力1万人はあり得ない

洛陽城

 

白馬・延津は例外として、後は官渡に籠っている印象の曹操ですが、本当は序盤から終盤までちょこまかと細かく手を出しているのが史書から判明します。以下は、官渡決戦に関係ありそうな部分の抜粋です。

 

①建安4年(199年)4月以降、曹操は黎陽(れいよう)に進軍。臧霸(ぞうは)らを青州に進入させて斉・北海・東安を破らせ于禁(うきん)を黄河の畔に留屯させた。

②建安4年(199年)9月、曹操は許に帰還し兵を分けて官渡を守らせた。

③同年12月曹操は官渡に入城した。

④建安5年(200年)正月、劉備を小沛で破り妻子を捕らえ、将軍夏侯博を生け捕る。下邳で関羽を破り降伏させる。

⑤建安5年2月、袁紹南下。曹操、白馬・延津で袁紹軍を撃破、顔良(がんりょう)文醜(ぶんしゅう)敗死。

⑥同年8月、袁紹が軍営を連ねて漸進し沙塠(しゃつい)に依って駐屯。軍営は東西数十里に及んだ。曹操も軍営を分って相対し合戦したものの結果は良くなかった。

⑦袁紹はさらに進んで官渡に臨み土塁や坑道を造り、曹操は陣内に同様に作って対抗させた。

 

 

幕末 魏呉蜀 書物

 

②の部分に注目して下さい。曹操は許に帰還して兵を分けて官渡を守らせていますね。

つまり、少なくとも官渡に兵を割いた許には兵力があるという事です。実際、曹仁が汝南辺りで兵を挙げた劉備と劉辟を討伐して敗走させ、劉備の兵力は数千と書かれているので、曹仁はそれと同等か上回る兵力で臨んだ事でしょう。これも許に兵力がある証拠です。

曹仁

 

⑥で曹操は東西数十里に及ぶ袁紹の陣営に対抗し軍営をわけてドンパチしていますが、兵力1万未満でそんな事が可能なわけはありません。ここはやはり官渡城に籠城した兵力だけが1万人未満で、それ以外にもちゃんと兵力はいたと考えるのが自然です。

結論:曹操と袁紹の兵力差は陳寿が言う程ではない

曹操にコテンパにされる袁紹

 

曹操軍の将兵は、公孫瓚を(ほふ)り北方四州を併呑して十数万の兵力で許に南下してきた袁紹を見て、勝ち目はないと考えて怯えていました。それを何とか覆そうと曹操は

 

「袁紹は見てくれだけのポンコツで、兵力と国土と食料が豊富でも、部下は派閥で喧嘩して兵は法律を守らないのだから、どうせ全ては俺へのプレゼントになる」と吹きまくっています。

呉と蜀を倒しに南下する曹操軍

 

曹操の強がりを見ると、袁紹の兵力が曹操を上回り、2倍とか3倍という可能性はあるでしょう。しかし、10倍差というには曹操は積極攻勢に出過ぎており無謀な感じがします。

 

また、袁紹軍は官渡城を包囲しておらず、自国の兵が敵の10倍なら囲めという孫子の兵法に反した方法を採用しているので、10倍までの兵力差は考えにくいのです。そこから見ても、曹操と袁紹の兵力差は少なくとも倍、多くても5倍はないのではないかとkawausoは考えます。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

陳寿はやはり、晋王朝におもねって曹操の功績を盛ったのでしょうか?

 

その可能性は高いとは思いますが、ただ、正史三国志には戦う双方の兵力の多寡について必ず記しているわけではない点にも注意が必要かと思います。

 

これが後世のいわゆる戦術書との違いであり、いかに勝ったかという具体的な方法よりも、人物の叙述が中心になる三国志の性質を見ると、一々、兵力について調べてられないよと陳寿が考えて、悪気はなくショートカットした可能性も考えられます。

 

少なくとも曹操は兵力的には袁紹より劣勢だった、だが10倍差という事はなかったというのが官渡の戦いの真実なのではないでしょうか?

 

参考文献:正史三国志

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

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