
「はじめての三国志」でライターの大半は正史『三国志』をもとに記事を執筆しています。この正史『三国志』は蜀(221年~263年)から西晋(265年~316年)の歴史家である陳寿が執筆したものでした。
ところで陳寿は不遇の歴史家と言われていますが、それに関しては近年疑問が出されています。そこで今回は正史『三国志』の著者である陳寿の不遇説の疑問について切り込みます。
この記事の目次
陳寿の2つの生年
陳寿に関する史料は『華陽国志』と『晋書』などである。『晋書』では西晋の元康7年(297年)に亡くなったことになっているので、陳寿の生年は蜀の建興11年(233年)になります。
しかし、『華陽国志』の陳寿の没年は永康元年(300年)以降と記されているので、『華陽国志』が正しければ、陳寿の生年は早くて蜀の建興14年(236年)になるのです。
陳寿は有力豪族陳氏の出身
まず陳寿について解説。陳寿は益州巴西郡安漢県(現在の四川省南充市)を出身とする豪族「安漢四姓」と言われる有力豪族陳氏の1人でした。安漢四姓は他に趙氏・閻氏・范氏がいます。「呉の四姓」である陸氏・朱氏・張氏・顧氏と似たようなものが益州にもあったのでした。
髪を切られた陳寿の父
陳寿の父の名前は伝わっていませんが、諸葛亮の第1次北伐である街亭の戦いで馬謖と一緒に出陣しています。近年の研究によると、陳寿の父が従軍したのは街亭付近にいる異民族の懐柔が目的であったと言われています。
だが、街亭の戦いは馬謖が山頂に布陣したことから水を絶たれて魏(220年~265年)に大敗。
この敗戦の結果、馬謖は死罪となり陳寿の父も髠刑にされました。髠刑は髪を切る刑罰であり、死罪より一段階低い刑罰だったのです。
「髪を切って、死罪を免じてもらえるなんて楽じゃないですか?」と思う読者の皆様もいるかもしれません。現代の人の価値観では難しいかもしれませんが、髪を切られるのは親からもらった体を傷つけられるので中国では非常に屈辱的だったのです。
陳寿の略歴
陳寿の父はその後、歴史上から姿を消してしまいます。もしかしたら地方官で終わったのかもしれません。陳寿には兄と弟が1名ずついます。兄は同母ですが、弟は腹違いの可能性があります。陳寿は若い時に同郷の学者である譙周から儒学や歴史学を学びます。この時に学んだことが、後の正史『三国志』の執筆に活かされたのでしょう。
炎興元年(263年)に蜀は魏に攻め込まれて滅亡。陳寿も降伏しました。その魏も2年後に滅亡。陳寿は西晋に出仕しました。学識があった陳寿は、荀勗・張華・杜預などの中央官僚がパトロンになってくれたので、陳寿は順風満帆な官僚生活を送ります。
だが、西晋の官界は呉(222年~280年)の討伐を巡り二分されました。陳寿のパトロンである張華と杜預は討伐派に、荀勗は反対派になったのです。陳寿はこの時、張華と杜預の味方をしたことから荀勗の恨みを買いました。やがて地方に左遷された陳寿はそこで正史『三国志』を執筆。
やがて太康元年(280年)に西晋が呉を滅ぼして天下を統一。陳寿の母もその時期に亡くなりますが、陳寿は母親の遺体を故郷に埋葬しなかったことで人々から非難を受けて罷免されます。やがて復職する辞令をもらいますが、拝命しないまま死去しました。生没年については最初に解説した通りです。
陳寿は不遇か?
一般に陳寿は不遇な歴史家と言われています。蜀の官僚だった時は宦官の黄皓や諸葛亮の息子である諸葛瞻から疎まれたりしています。また、父の服喪中に体調を崩したらしく風邪薬を処方してもらい服用しますが、それを客人に見られて故郷の人々から「親不孝者」の烙印を押されました。どうやら陳寿は親の服喪中に問題を起こす癖があるようです。
ちなみに儒教社会では親が死んだ時は、気絶するまで泣くのが最高級の親孝行とされていました。また、西晋においては呉の討伐論者である張華の派閥に所属していたことから、出世が閉ざされたことも不遇の要因の1つとされています。
そして不遇の最大の要因とされているのは、正史『三国志』執筆にあたり、陳寿自身は蜀を正統としながらも、西晋に仕える役人として魏を正統と扱わなければいけなかったことにありました。
この話は清(1644年~1911年)の時代から有名であり、現代でも信じている研究者はいます。ところが、陳寿の不遇説には疑問が残る個所がいくつも存在していたのでした。
存在しなかった陳寿と黄皓の対立
まず陳寿が蜀の官僚時代に黄皓と対立した話。出典は『晋書』ですが、この書物は唐(618年~907年)の編纂物であり、内容も物語のようなものが混じっており史料価値が低いのです。
それでは陳寿について書かれているもう1つの書物『華陽国志』はどうでしょうか?こちらは東晋(317年~420年)に編纂されたものであり、史料価値が高いもので有名です。だが、陳寿と黄皓の対立は全く記されていません。要するに陳寿と黄皓の対立は後世の歴史家の捏造と言われています。
実は出世していた陳寿
一般の概説書で陳寿は出世が出来なかったと言われています。確かに呉の討伐論者である張華・杜預に味方をしたことから、荀勗に疎まれて出世の道が閉ざされたのは事実でした。
ただし、陳寿の官歴を見ると必ずしも出世していないとは言い切れません。西晋で陳寿は佐著作郎という七品の官位からスタートしています。この官位は西晋では出世コースに当たりました。
その後、地方に左遷されますが郡太守(五品)になります。最終的には中央官である太子中庶子(五品)にまでなりました。太子中庶子は将来の皇帝側近です。現代の日本で例えるのなら、首相補佐官のような存在。陳寿はそこまでの位まで昇っていたのです。残念ながら皇太子が失脚したので、陳寿は辞退しています。
西晋第2代皇帝恵帝も陳寿の才能を称賛していました。また、陳寿のパトロンである張華も名誉職である九卿を彼にあげる予定にしていたのです。この計画は張華の失脚と死で頓挫します。こうしてみると、陳寿は出世していないどころか、蜀の生き残りの官僚の中では大出世しているのではないでしょうか?
政治家・歴史家としても勝ち組!
こうしてみると陳寿は幸せな人生だったのかもしれません。政治家人生の後半は荀勗から疎まれてしまいますが、政治家人生のほとんどが出世で終わっています。
また、他の歴史家と比較してもどうでしょうか?『史記』の著者である司馬遷少し友人をかばった程度で宮刑にされていますし、『漢書』の著者である班固も政治闘争に巻き込まれて獄死、『後漢書』の著者の范曄も反逆罪で死罪。
彼らに比べると陳寿は幸せな人生であり「不遇」な歴史家ではなかったのです。それどころか、陳寿は処世術に長けた政治家でした。忘れてはいけないのは陳寿の本業は歴史家ではなく、政治家なのです!
三国志ライター 晃の独り言
陳寿は生前から悪い噂の絶えない歴史家でした。今回紹介した父の喪に服している最中に薬を飲んだ事件や母の遺体を故郷に葬らなかった事件もその1つです。
中国の研究者たちは、これらの事件は出世出来なかった蜀の官僚たちがばら撒いた噂の可能性があると言っています。もちろん確たる証拠はありませんけど・・・・・・
※参考文献
・田中靖彦「陳寿の処世と『三国志』」(初出2011年 後に『中国知識人の三国志像』研文出版 2015年所収)
・増井経夫『中国の歴史書 中国史学史』(刀水書房 1984年)
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