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この記事の目次
城主になったのは光秀が先
秀吉と光秀のふたりは、織田の家臣団の中ではどちらも新参者。名もなきところからのし上がった秀吉と、幕臣の立場ながら信長を支えて貢献している光秀。信長はこのふたりを重用し、どんどん出世させました。
最初に出世したのは光秀で1571(元亀2)年のこと。近江国志賀郡5万石が与えられます。その後、丹波平定の功績により1580(天正8)年に34万石を領しています。
さらに丹後の細川藤孝や大和の筒井順慶を寄騎として傘下に収めていますので、本能寺の変直前の頃には91万石ほどを勢力下に治めていました。
一方秀吉は光秀に遅れること2年後の、1573(天正元)年に浅井氏滅亡時に北近江三郡が任されます。旧浅井氏の所領を受け継ぎましたが、石高は12万石と言われています。秀吉はその後中国方面の司令官として姫路城を拠点に播磨、但馬、因幡、伯耆東部、備前、美作、備中東部、淡路まで勢力下に治めており、本能寺の変の直前には134万石相当を有していました。但し秀吉の勢力下には、独立した勢力で毛利側から寝返った宇喜多家の所領が含まれており、秀吉は当主秀家の後見人という立場だったので、実際には90万石程度と考えられます。
中国攻略での秀吉の動き
信長が室町幕府を滅ぼした後、信長は天下人として全国統一に動きだし、秀吉、光秀らの重臣を司令官として派遣します。
秀吉は当初柴田勝家の寄騎として北陸攻めに従軍しますが、勝家と対立した秀吉が離脱。信長に激怒されるもその後の働きにより、中国方面軍の司令官に命じられます。
秀吉の中国攻めは1577(天正5)年から始まりました。播磨に入った秀吉は、小寺家の家老だった黒田孝高により、姫路山(姫路)城を差出し、秀吉の軍師となります。姫路山城を拠点にした秀吉は、但馬国を攻略し、制圧後に弟の秀長に任せ、その後小さな領主が多数存在していた播磨の国を次々と支配下に置きます。
そのまま備前・美作に迫りました。毛利の大軍がくると援軍を要請するも、毛利軍に押し込まれ、さらに播磨で従った領主の中から離反者が現れます。さらに援軍に来た、尼崎城の荒木村重まで信長に反旗を翻し、秀吉は危機を迎えます。しかしやがて体勢を立て直して逆襲。最終的に制圧しました。
その後、備前の宇喜多氏を戦わずして傘下に収めることに成功します。淡路・因幡の鳥取城も制圧。いよいよ毛利軍と対峙することになり、備中高松城では有名な水攻めを行います。そんな中、秀吉は毛利方に向かう怪しい使者を捕らえました。
そこで本能寺の変を知ることになります。
畿内平定での光秀の動き
秀吉が中国攻めを行っている最中、光秀は主に機内で活躍しました。最初に行ったのは、1575(天正3年)から始まった丹波攻めです。光秀は当初は、亀岡にあった余部城を拠点としていましたが、後に亀山城を築城します。丹波攻略には4年の歳月がかかりました。途中・八上城主・波多野秀治の裏切りがあり、それに従うものもあらわれたからです。
しかし反撃に出た光秀の攻撃は凄まじく、1579(天正7)年にはついに丹波を制圧。翌年にはそのまま丹波の国が信長より光秀に与えられます。丹後の藤孝と大和の順慶を寄騎につけられ、近畿管領と呼ばれる畿内の司令官となります。これは主に信長の近辺を守るような立場。1581(天正9)年に京都で行われた信長の軍事パレード「京都御馬揃え」の運営責任者を命じられています。
また甲斐の武田氏滅亡後に、信長が徳川家康を安土に招待した際の饗応役を光秀が担当。どちらかといえば他国を攻めるというより信長のそばで仕え、援軍要請があれば、それに応じて出陣していたことがうかがえます。
そして本能寺の変の前、信長は光秀に中国の秀吉の援軍として向かうよう指示をします。家康の饗応役が解任され、自国の丹波に戻って軍勢を整えますが、これが本能寺の変が起こるきっかけとなります。
本能寺の変と中国大返し
信長の命により、丹波に戻った光秀は、中国の秀吉の援軍に向かう準備をしていました。しかしそれは表向きで、光秀はこのときに信長への謀反を考えていました。この本能寺の変については、光秀単独犯説や黒幕説などが数多くあり、明確な回答が出ていません。
また信長が家康を安土城に呼び、堺の見学をさせたのは、家康を殺すためで、その密命を光秀が担ったという説もあります。(その説では光秀が逆に家康と裏でつながって信長をだましたとも)。
いずれにせよ光秀は6月2日の夜に本能寺を急襲しました。信長と嫡男・信忠を殺害します。光秀はそのまま安土城に入り、朝廷や近隣の大名に味方になる様に書状を書き使者を送ります。そのうちのひとつが毛利に届く前に秀吉に見つかりました。秀吉は、毛利と和睦。
すぐさま光秀を討つために東に向かいます。これがいわゆる中国大返し。4万とも言われる秀吉軍は、途中姫路を経由し、10日間かけて320キロの大移動を敢行しました。
光秀は寄騎だった藤孝や順慶が味方について来るものだと信じていましたが、結果は両者とも動かず、藤孝は「喪に服す」と言って中立の構えを見せます。順慶に至っては、秀吉側に寝返り、拠点の大和郡山城で籠城の準備をはじめました。
山崎の戦いで別れた明暗
予想以上に京都に向けて突き進んでいる秀吉を見た光秀は、明智政権の体制を整える間もなく出陣を余儀なくされます。6月11日に、秀吉軍は尼崎に達していました。ここで摂津を治める中川清秀・高山右近といった大名の動向が注目されます。光秀はこの摂津の大名を重視しませんでした。その余裕がなかったのかもしれません。しかし秀吉は対照的に重視。清秀には「信長が危機を切り抜け近江の膳所にいる」という誤報を伝え、光秀側に付かないように牽制します。その結果、摂津の諸大名たちは秀吉側に着きました。
このような状況の元、光秀は京都の治安維持を図ったのち山崎で陣を張ります。秀吉は摂津富田で四国・長宗我部への遠征軍を編成していた、丹羽長秀と織田信孝と合流し、光秀打倒の軍を進めます。四国遠征軍は秀吉との合流前に光秀の娘婿で信長の甥にあたる津田信澄を自刃に追い込みました。信澄の父は信長の弟・信行で信長に殺されたこともあり、その恨みがあると思われたからです。しかし内通したという記録は残っていません。
摂津の大名が最前線に立って合戦が始まると、軍勢の数の力で光秀軍は敗退。
光秀は落ち武者狩りの農民の竹槍が突き刺さり深手を負い自害。こうして光秀の天下は10日余りで終わり、秀吉の時代に代ります。
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