豊臣秀吉と明智光秀の関係はライバルか仲間か?二人の関係性を検証

2020年8月13日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

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出世の競争をする明智光秀と豊臣秀吉

 

豊臣秀吉(とよとみひでよし)明智光秀(あけちみつひで)の関係を検証します。どちらも織田信長(おだのぶなが)の家臣として、他の家臣よりも活躍し、目覚ましく出世街道を突き進んだふたり。

 

明智光秀を馬鹿にする豊臣秀吉

 

しかし本能寺の変から明暗が分かれ、謀反人として歴史から葬り去られた光秀と、天下人としてその名が知られる秀吉という評価になっています。そのあたりの実際について、じっくり確認して行きます。

 

秀吉が信長の家臣になるまで

羽柴秀吉(足軽時代)

 

秀吉が信長の家臣になるまでを確認します。秀吉は下層民の子として生まれたために明確な記録はありません。義父(実父という説も)であった竹阿弥(ちくあみ)の虐待に耐えられず家を出た秀吉は、遠江国にあった引馬城支城の頭陀寺城主・松下之綱(まつしたゆきつな)に仕えたとあります。この人物は今川家の家臣・飯尾(いいお)氏の家臣という家柄。そこで秀吉は目を掛けられてそれなりの働きをしましたが、あまり詳しい情報は残っていません。そして之綱の元を離れ、新たな士官先を探します。

 

豊臣秀吉を信頼する織田信長

 

そして木下藤吉郎と名乗り、1554(天文23)年頃に信長の家臣になっています。最初は雑用役の小者として使えます。やがて秀吉が率先してあらゆる雑用をこなしたことで、信長から高い評価を受けます。やがて足軽となり織田軍に従軍しながら、美濃の斉藤家の家臣の誘降工作を成功させるなど、確実に成果を収めます。

 

豊臣秀吉 戦国時代

 

1565(永禄8)年には「木下藤吉郎秀吉」の署名のある安堵状が発見されており、この頃には秀吉が武将として認められていることがうかがえます。そして歴史的に有名なのが墨俣一夜城建設。これについては諸説あり、信ぴょう性に乏しいとも言われていますが、この頃から蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)など秀吉に仕えるものの、名前が登場しています。そして信長が上洛した際には従軍し、光秀らと京都の政務を任されています。

 

光秀が信長の家臣になるまで

正装した明智光秀

 

明智光秀は、清和源氏と土岐(とき)氏の流れを汲む明智氏の家に生まれました。父は幼少のころに無くなり、叔父が城主となっていたとありますが、はっきりしたことはわかっていません。

 

斎藤義龍に討たれる斎藤道三

 

光秀の住んでいた明智城は。美濃斉藤家の親子での内紛による影響で、父・道三(どうさん)を倒した義龍(よしたつ)に攻められてしまい、一族が離散しました。

朝倉義景

 

一般的には越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)を頼っていますが、室町幕府の幕臣・細川藤孝(ほそかわふじたか)に仕えていたという説や医者として生計を立てていたという説もあります。

 

足利義昭

 

やがて転機が訪れ、越前に来た足利義昭(あしかがよしあき)に仕えています。義景が上洛をする様子が無いのを見ると、義昭はそれを見限り、美濃(みの)を制圧したばかりの信長に接近します。そしてその斡旋に光秀が関わっていたとも言われます。やがて義昭は信長を頼って上洛。足利幕府15代将軍になります。

お茶を楽しむ明智光秀

 

このときに光秀も秀吉らとともに京都の政務に当たりますが、この頃はまだ幕臣という立場でした。また信長とふたりの主君に仕えていたという説も。光秀が信長単独の家臣になったとされるのは、比叡山の焼き討ちの頃からとされます。

 

明智光秀が剣を持って戦っているシーン

 

焼き討ちの後、近江の志賀郡5万石が信長より与えられ、坂本城を築城します。そして光秀は義昭を完全に見限り、最後は信長側の武将として義昭と戦い、室町幕府滅亡に一役買ったことになります。

 

秀吉と光秀の性格

宴会好きな豊臣秀吉

 

豊臣秀吉の性格ですが、天下人になる前と後で大きく変わったと言われています。ここでは光秀との比較より、天下人になる前の秀吉の性格を見てきます。ひとつには「冷静な判断力」があります。信長という人物を見極め、信長に好印象を持ってもらえるよう、アピールできるかを常に考えていました。

非常に極悪な表情をしている豊臣秀吉

 

そして謙虚さからのカリスマ性。これは人心掌握の術にたけており、敵対していた美濃勢の誘降工作からはじまり、天下統一までの間、あらゆる人物に対して行っています。そのほか先見性や創造性も高いと言われ、水攻めや兵糧攻めを得意としていました。

 

斎藤利三と密談する明智光秀

 

次に光秀の性格ですが、教養力の高さがあります。将軍家、公家、天皇家とも親交深かったとの記録が残ります。また手先が器用とも言われ、鉄砲打ちの名手とも。

ルイス・フロイス

 

また狡猾(こうかつ)な性格で密会を好む陰湿な性格があると、宣教師ルイス・フロイスの日本記に記されています。

 

火縄銃(鉄砲)が得意な明智光秀

 

そのほか慈愛に満ちた性格があったとも言われ、領民には慕われている一方。比叡山や本願寺、丹波勢との戦いにおいては容赦なく、ある意味残虐な方法で相手を圧倒するしたたかさをも持ち合わせていました。そして士官をする前の頃の見聞の高さや人脈を持っていたとも言われています。

 

協力し合った京の政務と金ケ先の戦い

麒麟にまたがる織田信長

 

秀吉と光秀がはじめて一緒に仕事をしたのが、信長上洛後に行われた京都の政務です。上洛直後の信長はまだ尾張と美濃の2カ国を平定しただけの大名で、公家衆や近隣諸大名からは、義昭の供をしている将という印象しかありませんでした。そのため一旦信長が美濃に戻ると、撤退していた三好勢が再び四国から京を目指すような状況。

 

馬にまたがって戦う明智光秀

 

このときは信長が戻るまでもなく光秀らの奮戦で敗退させるなど、当時は幕臣としての立場の光秀も活躍しています。また秀吉も当時の明確な情報は残っていませんが、信長家臣のひとりとして京都での政務を行っていました。それと同時に但馬への出兵を言い渡されるなど、あわただしく動き回っています。

 

浅井長政(あざいながまさ)

 

またこのふたりはある戦いにおいて同じ役目を担ったことがあります。それは金ヶ崎の戦い。信長の上洛命令を無視した朝倉義景への戦いの最中、同盟していた浅井長政(あさいながまさ)が裏切ったために、撤退をする必要に迫られました。そのときに殿(しんがり)を、このふたりが担当しています。

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

この役目は軍の最後に撤退し、追手からの攻撃を受けながら、信長らの本体を逃がす役目。命の保証もありません。そんな中、ふたりはうまく切り抜けて織田軍の撤退を成功させました。そしてもちろんふたりとも無事に生還しています。

城主になったのは光秀が先

部下を競争させる織田信長

 

秀吉と光秀のふたりは、織田の家臣団の中ではどちらも新参者。名もなきところからのし上がった秀吉と、幕臣の立場ながら信長を支えて貢献している光秀。信長はこのふたりを重用し、どんどん出世させました。

 

明智光秀に出世争いで負ける豊臣秀吉

 

最初に出世したのは光秀で1571(元亀2)年のこと。近江国志賀郡5万石が与えられます。その後、丹波平定の功績により1580(天正8)年に34万石を領しています。

 

筒井順慶

 

さらに丹後の細川藤孝や大和の筒井順慶(つついじゅんけい)寄騎(よりき
)
として傘下に収めていますので、本能寺の変直前の頃には91万石ほどを勢力下に治めていました。

 

豊臣秀吉に出世争いで負ける明智光秀

 

一方秀吉は光秀に遅れること2年後の、1573(天正元)年に浅井氏滅亡時に北近江三郡が任されます。旧浅井氏の所領を受け継ぎましたが、石高は12万石と言われています。秀吉はその後中国方面の司令官として姫路城を拠点に播磨、但馬、因幡、伯耆東部、備前、美作、備中東部、淡路まで勢力下に治めており、本能寺の変の直前には134万石相当を有していました。但し秀吉の勢力下には、独立した勢力で毛利側から寝返った宇喜多家の所領が含まれており、秀吉は当主秀家の後見人という立場だったので、実際には90万石程度と考えられます。

 

中国攻略での秀吉の動き

戦にめっぽう強い柴田勝家

 

信長が室町幕府を滅ぼした後、信長は天下人として全国統一に動きだし、秀吉、光秀らの重臣を司令官として派遣します。

 

ちょっとしたことでブチ切れる織田信長

 

秀吉は当初柴田勝家(しばたかついえ)の寄騎として北陸攻めに従軍しますが、勝家と対立した秀吉が離脱。信長に激怒されるもその後の働きにより、中国方面軍の司令官に命じられます。

 

黒田官兵衛

 

秀吉の中国攻めは1577(天正5)年から始まりました。播磨に入った秀吉は、小寺家の家老だった黒田孝高(くろだよしたか)により、姫路山(姫路)城を差出し、秀吉の軍師となります。姫路山城を拠点にした秀吉は、但馬国を攻略し、制圧後に弟の秀長に任せ、その後小さな領主が多数存在していた播磨の国を次々と支配下に置きます。

 

織田信長を裏切り謀反を起こす荒木村重

 

そのまま備前・美作に迫りました。毛利の大軍がくると援軍を要請するも、毛利軍に押し込まれ、さらに播磨で従った領主の中から離反者が現れます。さらに援軍に来た、尼崎城の荒木村重(あらきむらしげ)まで信長に反旗を翻し、秀吉は危機を迎えます。しかしやがて体勢を立て直して逆襲。最終的に制圧しました。

 

毛利元就

 

その後、備前の宇喜多(うきた)氏を戦わずして傘下に収めることに成功します。淡路・因幡の鳥取城も制圧。いよいよ毛利軍と対峙することになり、備中高松城では有名な水攻めを行います。そんな中、秀吉は毛利方に向かう怪しい使者を捕らえました。

 

織田信長が亡くなりショックを受ける豊臣秀吉

 

そこで本能寺の変を知ることになります。

 

畿内平定での光秀の動き

明智光秀(麒麟がくる)

 

秀吉が中国攻めを行っている最中、光秀は主に機内で活躍しました。最初に行ったのは、1575(天正3年)から始まった丹波攻めです。光秀は当初は、亀岡にあった余部城を拠点としていましたが、後に亀山城を築城します。丹波攻略には4年の歳月がかかりました。途中・八上城主・波多野秀治の裏切りがあり、それに従うものもあらわれたからです。

 

意気投合する明智光秀と織田信長

 

しかし反撃に出た光秀の攻撃は凄まじく、1579(天正7)年にはついに丹波を制圧。翌年にはそのまま丹波の国が信長より光秀に与えられます。丹後の藤孝と大和の順慶を寄騎につけられ、近畿管領と呼ばれる畿内の司令官となります。これは主に信長の近辺を守るような立場。1581(天正9)年に京都で行われた信長の軍事パレード「京都御馬揃え」の運営責任者を命じられています。

 

安土城 織田信長が作らせた城

 

また甲斐の武田氏滅亡後に、信長が徳川家康を安土に招待した際の饗応役を光秀が担当。どちらかといえば他国を攻めるというより信長のそばで仕え、援軍要請があれば、それに応じて出陣していたことがうかがえます。

 

南蛮胴を身に着けた織田信長

 

そして本能寺の変の前、信長は光秀に中国の秀吉の援軍として向かうよう指示をします。家康の饗応役が解任され、自国の丹波に戻って軍勢を整えますが、これが本能寺の変が起こるきっかけとなります。

 

本能寺の変と中国大返し

織田信長に恨みを持つ明智光秀

 

信長の命により、丹波に戻った光秀は、中国の秀吉の援軍に向かう準備をしていました。しかしそれは表向きで、光秀はこのときに信長への謀反を考えていました。この本能寺の変については、光秀単独犯説や黒幕説などが数多くあり、明確な回答が出ていません。

 

裏切りそうな悪い顔をしている明智光秀

 

また信長が家康を安土城に呼び、堺の見学をさせたのは、家康を殺すためで、その密命を光秀が担ったという説もあります。(その説では光秀が逆に家康と裏でつながって信長をだましたとも)。

 

敵は本能寺にあり!と叫ぶ明智光秀

 

いずれにせよ光秀は6月2日の夜に本能寺を急襲しました。信長と嫡男・信忠(のぶただ)を殺害します。光秀はそのまま安土城に入り、朝廷や近隣の大名に味方になる様に書状を書き使者を送ります。そのうちのひとつが毛利に届く前に秀吉に見つかりました。秀吉は、毛利と和睦。

 

中国大返し ver1(豊臣秀吉)

 

すぐさま光秀を討つために東に向かいます。これがいわゆる中国大返し。4万とも言われる秀吉軍は、途中姫路を経由し、10日間かけて320キロの大移動を敢行しました。

 

細川藤孝

 

光秀は寄騎だった藤孝や順慶が味方について来るものだと信じていましたが、結果は両者とも動かず、藤孝は「喪に服す」と言って中立の構えを見せます。順慶に至っては、秀吉側に寝返り、拠点の大和郡山城で籠城の準備をはじめました。

 

山崎の戦いで別れた明暗

中国大返し(豊臣秀吉)

 

予想以上に京都に向けて突き進んでいる秀吉を見た光秀は、明智政権の体制を整える間もなく出陣を余儀なくされます。6月11日に、秀吉軍は尼崎に達していました。ここで摂津を治める中川清秀(なかがわきよひで)高山右近(たかやまうこん)といった大名の動向が注目されます。光秀はこの摂津の大名を重視しませんでした。その余裕がなかったのかもしれません。しかし秀吉は対照的に重視。清秀には「信長が危機を切り抜け近江の膳所にいる」という誤報を伝え、光秀側に付かないように牽制します。その結果、摂津の諸大名たちは秀吉側に着きました。

 

丹羽長秀

 

このような状況の元、光秀は京都の治安維持を図ったのち山崎で陣を張ります。秀吉は摂津富田で四国・長宗我部(ちょうそかべ)への遠征軍を編成していた、丹羽長秀(にわながひで)織田信孝(おだのぶたか)と合流し、光秀打倒の軍を進めます。四国遠征軍は秀吉との合流前に光秀の娘婿で信長の甥にあたる津田信澄(つだのぶずみ)を自刃に追い込みました。信澄の父は信長の弟・信行(のぶゆき)で信長に殺されたこともあり、その恨みがあると思われたからです。しかし内通したという記録は残っていません。

 

馬に乗り落ち延びる明智光秀

 

摂津の大名が最前線に立って合戦が始まると、軍勢の数の力で光秀軍は敗退。

 

忙しくて過労で倒れる明智光秀

 

光秀は落ち武者狩りの農民の竹槍が突き刺さり深手を負い自害。こうして光秀の天下は10日余りで終わり、秀吉の時代に代ります。

光秀死後の秀吉の動き

清須会議に参加する池田恒興 柴丹羽長秀、羽柴秀吉、柴田勝家

 

光秀死後の秀吉は、清州会議で織田家の後継者争いを利用して勢力を広げて行きます。反秀吉派の柴田勝家らと対立するも、それらの勢力を次々と制圧。賤ヶ岳の戦いで勝家を滅ぼすと、織田家を実質的に取り仕切る立場となります。大坂城を築城し、やがて朝廷から関白を命じられます。そして徳川家康を傘下に加えました。この後は四国、九州、関東と次々と大軍を送り込んですべて制圧。1590(天正18)年には、全国を統一します。

 

豊臣秀吉 戦国時代2

 

京都に聚楽第(じゅらくだい)という屋敷を構え、天下を統一した秀吉は刀狩りや検地、伴天連(ばてれん)追放令を出すなど、豊臣政権を強化しつつ、さらなる野望を持ち、唐入り(中国・明への侵攻)を決意。2度にわたる朝鮮出兵を行います。

 

わずか4ヵ月で後継者に指名される豊臣鶴松

 

甥の豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に関白の地位を譲るも、実子となる秀頼(ひでより)が生まれると、秀次に謀反の罪を着せて殺害するなど、天下を取る前とは別人のような性格になっていました。そんな秀吉にも寿命が訪れ、1598(慶長3)年に62年の生涯を閉じます。

 

斎藤利三

 

ちなみに明智光秀の重臣、斉藤利三(さいとうとしみつ)の子たちの罪は許されており、三男の利宗(としむね)は罪を許され、加藤清正の家臣として5000石を与えられました。また娘の(ふく)は、稲葉家に引き取られ、後に徳川家光(とくがわ いえみつ
)
の乳母・春日局に(かすが の つぼね
)
なっています。

 

秀吉・光秀それぞれの信長との関係

織田信長

 

信長と秀吉の関係は、身分の低い秀吉を引きたてた信長という関係があります。信長の草履を肌の中に入れて温めたといったエピソードがあり、信長は秀吉の才能を大いに買いました。そして秀吉は信長の意にかなうように、他国の武将に根が得させるなどの調略を行い、そのまま出世。領地が与えられ、最終的に中国攻略の総司令官の立場にまで出世しました。常に信長に忠義を尽くしたというイメージがありますが、途中から疑問を持ち始め見切りをつけたという説もあり、本能寺の変の黒幕説まであるほどです。

 

部下に優しい明智光秀

 

一方、信長と光秀ですが、秀吉とは違った意味で、信長がその能力を高く評価していました。いち早く坂本城の城主になり、また信長のおひざ元である畿内の総司令官のような立場でいたほど、信長から評価されていたことがわかります。

 

織田信長に蹴られる明智光秀

 

ただ本能寺の変の原因として、信長からの激しい折檻(せっかん)などが取り上げられます。しかしほとんどが後世の作り話とも言われています。それゆえ光秀が謀反を起こした理由が今でも諸説あるほど。信長ほどの人物が100名に満たない小姓だけで本能寺に滞在するような、油断を見せるほどの信頼関係があったと考えられます。本能寺のことは、信長にとって全く想定外の動きだったのでしょう。

 

実は生存?家康の時代に登場した天海・光秀説とは?

落ち武者

 

定説では光秀は山崎の戦で敗れた後、落ち武者狩りをしていた農民の竹槍が刺さって深手を負ったために自害。しかし生存説というものがあります。そして光秀は正体を隠しある人物になったと言われています。

 

 

それは天海(てんかい)と言われる僧。天海の記録が明確になるのは、光秀が死亡した6年後の1588(天正16)年です。武蔵国の無量寿寺北院にいたと伝わります。そして家康が小田原攻めをする際に陣幕に天海がいたとされます。やがて北院の住職になったのは秀吉が死亡した1年後の1599(慶長4)年。

 

徳川家康

 

この頃から家康の参謀的な役目を担い、朝廷の交渉や比叡山の再興などを命じられます。また豊臣家を滅ぼすためのきっかけである。方広寺鐘銘事件にも深く関わったとも。家康の死後に東照大権現として日光に祀り、また江戸の都市計画にも深くかかわりました。

 

燃える本能寺

 

光秀は本能寺の変に関して家康と共謀したとも、家康が黒幕との説があり、深いつながりがあるとも言われています。そのような経緯から光秀が天海となって、家康や徳川将軍家を支えたのではという説です。しかしこれは一般的な研究家の間では支持されていません。ちなみに天海は長寿を全うし、当時としては珍しい108歳まで生きていたとされます。

 

戦国時代ライターSoyokazeの独り言

soyokaze(ライター)

 

豊臣秀吉と明智光秀、織田信長にひきたてられて出世したこのふたりは、家臣になったいきさつも、その後の人生も大きく変わりました。信長を本能寺で殺害した光秀と、その光秀を倒し、やがて天下人となった秀吉。歴史は勝者のためにあるため、どうしても後世の資料は、秀吉に有利に書かれています。しかし最近は光秀の再評価の動きもあります。いずれにせよもし光秀が信長を本能寺で倒さず、信長が生き長がられていたら、秀吉の天下もかかったかもしれない。家康はどうなったかと想像はつきませんが、このふたりが行った事実は、以降の歴史に大きな意義を持っていることは間違いないでしょう。

 

参考文献:

藤木久志『織田・豊臣政権』

池上裕子『織田信長』

小和田哲男『豊臣秀吉』

小泉策太郎『明智光秀』

明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』

須藤光暉『大僧正天海』

 

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Soyokaze

ライター自己紹介: 旧石器から現代史、日本、中国、西洋とどの歴史にも興味があります。 小学生のころから歴史に興味があり、歴史上の偉人伝を呼んだり、 NHKの大河ドラマを見たりして歴史に興味を持ちます。 日本のあらゆる歴史に興味を持ち、旧石器や縄文・神話の時代から戦後の日本までどの時代も対応可能。 また中国の通史を一通り読み西洋や東南アジア、南米に至るまで世界の歴史に興味があります。 最近は、行く機会の多いもののまだあまり知られていない東南アジア諸国の歴史にはまっています。 好きな歴史人物: 蘇我入鹿、明智光秀、石田三成、柳沢吉保、田沼意次(一般的に悪役になっている人たち)、溥儀、陳国峻(ベトナムの将軍)、タークシン(タイの大王) 何か一言: 勝者が歴史を書くので、歴史上悪役とされた敗者・人物は本当は悪者では無いと言ったところに興味を持っています。

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