帰蝶は戦国時代から安土桃山時代にかけての女性です。美濃の戦国大名斎藤道三の娘で、政略結婚で尾張の戦国大名、織田信長に嫁いだ事で知られています。
しかし、帰蝶については信長に輿入れした以外の情報がほとんどなく、名前にしても帰蝶、胡蝶、濃姫、鷺山殿、於濃の方と複数の名前が伝わり定かではありません。
今回は、謎が多いのに戦国時代ファンによく知られる信長の正室、帰蝶について解説します。
この記事の目次
天文4年頃斎藤道三の子として誕生
帰蝶は斎藤道三の娘で、天文4年頃(1535年)の生まれと伝わります。生母は東美濃随一の名家、明智光継の娘で小見の方とされ、明智光継の息子が明智光綱で明智光秀の父とされているので帰蝶は明智光秀とは従兄妹関係とも考えられますが、光秀の出自に謎が多く本当の続柄は不明です。
道三の大ピンチに土岐頼純に嫁ぐ
通説では、天文10年(1541年)頃、斎藤道三は、美濃守護土岐頼芸を追放し、その一族を殺して美濃国主となります。しかし、道三の強引な手法は美濃国人の反発を招いたので、道三は頼芸より下賜された側室、深芳野の子で嫡男の義龍を頼芸の御落胤と称して美濃の当主に据えました。
それに対し、天文13年(1544年)斎藤氏の台頭を嫌う尾張の織田信秀は、道三を退治すると称して土岐頼芸を援助して兵5千を派遣、さらに、甥の土岐頼純が越前国の朝倉孝景の加勢を受けた兵7千を与えられて美濃に南と西から攻め入りました。
斎藤軍は、まず南方の織田勢と戦いますが、過半数が討ち取られて稲葉山城を焼かれ、さらに西からも朝倉軍が接近したので、道三はそれぞれと和睦して事を収めようとします。織田家との和睦条件は、信秀の嫡男の織田信長に娘を輿入れされるというものでした。
しかし、天文15年(1546年)越前の朝倉孝景とも和睦する事になり、美濃守護を土岐頼芸から土岐頼純に替えた上で、人質として娘を輿入れさせる事になります。土岐氏は守護職なので、道三は家格の問題から正室の娘である帰蝶を土岐頼純に輿入れさせました。かくして、父の窮地を救う為に帰蝶は、12歳で嫁に出される事になります。
土岐頼芸の死で今度は織田信長に嫁ぐ
帰蝶を土岐頼純の嫁に出したので、織田家との約束は一度棚上げになります。しかし、天文16年(1547年)8月、織田・朝倉氏は、土岐頼芸と土岐頼純に大桑城に拠って土岐氏を支持する家臣団をまとめて、斎藤道三打倒の為に蜂起せよと促します。
道三は、この情報を察知して迅速に兵を集めて大桑城を大軍で押し寄せ、準備が整わない土岐頼芸と土岐頼純は、越前の一乗谷に落ちのびました。同年9月3日、織田信秀は再び、大軍を率いて稲葉山城を焼きますが、道三は偽装退却をして守りを堅め、織田軍が退却を開始すると奇襲を掛けて撃破します。
さて、一乗谷に落ち延びた土岐頼純は、美濃国諸旧記によると、天文16年の11月に当然亡くなったとも、大桑城攻めで討ち死にしたとも言われ、少なくとも、この時点で帰蝶は未亡人になり斎藤家に戻って来たと考えられます。
天文16年から翌年にかけて、道三と信秀は大垣城を巡って再三争いますが、決着がつかず、信秀が病気がちになっていた事もあり和睦が結ばれます。
ここで、以前の帰蝶の織田家輿入れの話が再浮上し、信秀は婚約の履行を再三求めたので、道三も折れ、天文18年(1549年)2月24日、帰蝶は15歳で織田信長と再婚しました。さらっと書きましたけど、15歳で再婚って現代の感覚だとスゴイですね。
信長に嫁いでより記録が途絶える帰蝶
その後、帰蝶の消息は、斎藤家の菩提寺常在寺に、父斎藤道三の肖像を寄進したという時期不明の記録を最後に一次史料では辿る事が出来ません。
絵本太閤記や武将感状記のような物語では、結婚の1年後に濃姫が熟睡してから信長が毎夜寝床を出て明け方に帰るという不審な行動が1カ月続き、浮気を疑った帰蝶が問い詰めると、信長は「道三の家老の2人と謀反の計画を練っていた」と白状したので、驚いた帰蝶が父の道三に手紙を書いて知らせ、道三は有力な家老2人を処刑、信長の離間計が的中したというような話があります。
しかし、これはあくまで物語であり、類似する内容の記録は一次史料にはありません。
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