帰蝶とはどんな人?織田信長の正室はどんな生涯を送ったの?

2020年8月14日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

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斎藤道三の娘・帰蝶

 

帰蝶(きちょう)は戦国時代から安土桃山時代にかけての女性です。美濃の戦国大名斎藤道三(さいとうどうさん)の娘で、政略結婚で尾張の戦国大名、織田信長(おだのぶなが)に嫁いだ事で知られています。

 

しかし、帰蝶については信長に輿入(こしい)れした以外の情報がほとんどなく、名前にしても帰蝶、胡蝶(こちょう)濃姫(のうひめ)鷺山殿(さぎやまどの)於濃(おのう)の方と複数の名前が伝わり定かではありません。

 

今回は、謎が多いのに戦国時代ファンによく知られる信長の正室、帰蝶について解説します。

 

天文4年頃斎藤道三の子として誕生

鎧兜姿の斎藤道三

 

帰蝶は斎藤道三の娘で、天文(てんぶん)4年頃(1535年)の生まれと伝わります。生母は東美濃随一(ひがしみのずいいつ)の名家、明智光継の娘で小見(おみ)の方とされ、明智光継の息子が明智光綱(あけちみつつな)明智光秀(あけちみつひで)の父とされているので帰蝶は明智光秀とは従兄妹(いとこ)関係とも考えられますが、光秀の出自に謎が多く本当の続柄は不明です。

 

道三の大ピンチに土岐頼純に嫁ぐ

悪い顔をする斎藤道三

 

通説では、天文10年(1541年)頃、斎藤道三は、美濃守護土岐頼芸(ときよりのり)を追放し、その一族を殺して美濃国主となります。しかし、道三の強引な手法は美濃国人の反発を招いたので、道三は頼芸より下賜された側室、深芳野(みよしの)の子で嫡男の義龍を頼芸の御落胤(ごらくいん)と称して美濃の当主に据えました。

 

織田信秀(おだのぶひで)は信長のお父さん

 

それに対し、天文13年(1544年)斎藤氏の台頭を嫌う尾張の織田信秀(おだのぶひで)は、道三を退治すると称して土岐頼芸を援助して兵5千を派遣、さらに、甥の土岐頼純(ときよりずみ)が越前国の朝倉孝景(あさくらたかかげ)の加勢を受けた兵7千を与えられて美濃に南と西から攻め入りました。

 

斎藤道三と戦をする織田信秀(加納口の戦い)

 

斎藤軍は、まず南方の織田勢と戦いますが、過半数が討ち取られて稲葉山城を焼かれ、さらに西からも朝倉軍が接近したので、道三はそれぞれと和睦して事を収めようとします。織田家との和睦条件は、信秀の嫡男の織田信長に娘を輿入れされるというものでした。

敗北し倒れている兵士達a(モブ)

 

しかし、天文15年(1546年)越前の朝倉孝景とも和睦する事になり、美濃守護を土岐頼芸から土岐頼純に替えた上で、人質として娘を輿入れさせる事になります。土岐氏は守護職なので、道三は家格の問題から正室の娘である帰蝶を土岐頼純に輿入れさせました。かくして、父の窮地を救う為に帰蝶は、12歳で嫁に出される事になります。

 

麒麟がくる

 

土岐頼芸の死で今度は織田信長に嫁ぐ

 

帰蝶を土岐頼純の嫁に出したので、織田家との約束は一度棚上げになります。しかし、天文16年(1547年)8月、織田・朝倉氏は、土岐頼芸と土岐頼純に大桑城に拠って土岐氏を支持する家臣団をまとめて、斎藤道三打倒の為に蜂起せよと促します。

 

道三は、この情報を察知して迅速に兵を集めて大桑城を大軍で押し寄せ、準備が整わない土岐頼芸と土岐頼純は、越前の一乗谷に落ちのびました。同年9月3日、織田信秀は再び、大軍を率いて稲葉山城を焼きますが、道三は偽装退却をして守りを堅め、織田軍が退却を開始すると奇襲を掛けて撃破します。

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

さて、一乗谷に落ち延びた土岐頼純は、美濃国諸旧記によると、天文16年の11月に当然亡くなったとも、大桑城攻めで討ち死にしたとも言われ、少なくとも、この時点で帰蝶は未亡人になり斎藤家に戻って来たと考えられます。

 

天文16年から翌年にかけて、道三と信秀は大垣城を巡って再三争いますが、決着がつかず、信秀が病気がちになっていた事もあり和睦が結ばれます。

 

ここで、以前の帰蝶の織田家輿入れの話が再浮上し、信秀は婚約の履行を再三求めたので、道三も折れ、天文18年(1549年)2月24日、帰蝶は15歳で織田信長と再婚しました。さらっと書きましたけど、15歳で再婚って現代の感覚だとスゴイですね。

 

信長に嫁いでより記録が途絶える帰蝶

織田信長

 

その後、帰蝶の消息は、斎藤家の菩提寺常在寺(ぼだいじじょうざいじ)に、父斎藤道三の肖像(しょうぞう)を寄進したという時期不明の記録を最後に一次史料では辿(たど)る事が出来ません。

 

絵本太閤記(えほんたいこうき)武将感状記(ぶしょうかんじょうき)のような物語では、結婚の1年後に濃姫が熟睡してから信長が毎夜寝床を出て明け方に帰るという不審な行動が1カ月続き、浮気を疑った帰蝶が問い詰めると、信長は「道三の家老の2人と謀反の計画を練っていた」と白状したので、驚いた帰蝶が父の道三に手紙を書いて知らせ、道三は有力な家老2人を処刑、信長の離間計が的中したというような話があります。

 

しかし、これはあくまで物語であり、類似する内容の記録は一次史料にはありません。

帰蝶追放説

織田信長といちゃつく帰蝶

 

帰蝶の史料は極めてとぼしく、実証が難しいので詳しい事はなにも分かりません。通説では、信長との間に子供は出来なかったとされていますが、信長の子供、特に女児は生母不明が多く本当に子供がいないかすら定かではないのです。

 

斎藤義龍(麒麟がくる)

 

また、子供が無かったから信長に離縁された。あるいは、道三が死んで信長と敵対する義龍(よしたつ)が当主になったので政略結婚の意味がなくなり織田家を追放されたという説もありますが、道三には、婿である信長に美濃を譲るとした国譲状(くにゆずりじょう)があり、それを受け取った信長としては、帰蝶との縁は切らない方が得策とも考えられます。

 

経済政策が得意な織田信長

 

さらに、道三の側室の1人は信長の妹であり重縁になっている点や、美濃からの人質であるという性質を考えると、無意味に離縁して義龍に返す必然性もありません。

 

実際、織田家臣団には斎藤氏と織田氏の共通の親族と言える家臣団がいて、浪人だった明智光秀も帰蝶と従兄妹という関係から信長に用いられた可能性もあります。

正装した明智光秀

 

もちろん、その場合、斎藤道三の娘である帰蝶が、織田家と斎藤家を結びつける核になりますから追い出すような選択は取らないでしょう。従って、離婚されて追放された説は信憑性が薄いと言えます。

 

帰蝶死亡説

ひとりぼっちで寂しい織田信長

 

帰蝶は14歳で信長に嫁いだものの、初期の側室、生駒氏(いこまし)が弘治3年(1557年)に信長の嫡男、織田信忠を産む以前に20歳前後で死んだという説があります。

 

この説は、正室の帰蝶が死んだので、信長が生駒氏を継室(けいしつ)として信忠が生まれたという考えですが、実際には生駒氏が継室になった記録はなく、そもそも信忠の母は生駒氏だと決まったわけでもないのです。

 

生駒氏の記録のある武功夜話は、近年その資料としての精度に疑いが出てきており、帰蝶が早く死んだから生駒氏が側室になったとは断定できません。

 

本能寺討死説

本能寺の変で「是非に及ばず」と切り替えの早い織田信長b

 

帰蝶がその後も生き残り、織田信長と共に本能寺に宿泊中に明智光秀に襲撃され、薙刀(なぎなた)を奮い奮戦するも討死したと言う説です。これは創作物における描写であり、武士の妻として夫の最期に殉じる貞女の鑑として生み出された伝説と考えられます。

 

民間伝承では、岐阜県岐阜市不動町(ぎふけんぎふしふどうちょう)に本能寺の変の際に信長の家臣の1人が帰蝶の遺髪を携えて、この地までたどりつき埋葬したという濃姫遺髪塚というものがあるようです。

 

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、帰蝶も光秀も信長も少年期からの関係なので、もしこの説が採用されたら3名にとっては地獄絵図ですね。

 

信長より長生き説

気が強い帰蝶

 

信長の次男の織田信雄が天正15年(1587年)頃の家族や家臣団の構成をまとめた織田信雄分限帳に出てくる安土殿(あづちどの)が帰蝶であると考える説もあります。

 

記帳によると安土殿は、600貫の知行を受け、女性としては信雄の正室の御内様(おうちさま)、信雄の実妹徳姫(じつまいとくひめ)についで3番目に記載され、4番目の信長生母、土田御前(どたごぜん)や5番目の信長妹小林殿と比較してもかなり地位が高く、まだ安土殿という名前は信長の根拠地安土城を(かん)した名前で、信長の正室である帰蝶に相応しいと考えられています。

 

これが正しいなら帰蝶は本能寺でも死なず、少なくとも5年以上、信長より長生きした事になりますね。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

内容に納得がいかないkawauso様

 

信長と婚姻後の帰蝶の消息は不明ですが、その後、斎藤道三の息子や明智光秀が織田家を頼って来た背景を考えると、存命の帰蝶の伝手を頼ったと考えた方が自然です。

 

そのため、帰蝶は離縁される事無く織田家で暮らしていたとkawausoは考えます。大河ドラマのように目立つ事はないものの、帰蝶を中心に織田と斎藤の家臣が一つに纏まり、天下統一に邁進して行ったのだとしたら面白いですね。

 

参考:Wikipedia

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

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