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帰蝶とはどんな人?織田信長の正室はどんな生涯を送ったの?


 

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斎藤道三の娘・帰蝶

 

帰蝶(きちょう)は戦国時代から安土桃山時代にかけての女性です。美濃の戦国大名斎藤道三(さいとうどうさん)の娘で、政略結婚で尾張の戦国大名、織田信長(おだのぶなが)に嫁いだ事で知られています。

 

しかし、帰蝶については信長に輿入(こしい)れした以外の情報がほとんどなく、名前にしても帰蝶、胡蝶(こちょう)濃姫(のうひめ)鷺山殿(さぎやまどの)於濃(おのう)の方と複数の名前が伝わり定かではありません。

 

今回は、謎が多いのに戦国時代ファンによく知られる信長の正室、帰蝶について解説します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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天文4年頃斎藤道三の子として誕生

鎧兜姿の斎藤道三

 

帰蝶は斎藤道三の娘で、天文(てんぶん)4年頃(1535年)の生まれと伝わります。生母は東美濃随一(ひがしみのずいいつ)の名家、明智光継の娘で小見(おみ)の方とされ、明智光継の息子が明智光綱(あけちみつつな)明智光秀(あけちみつひで)の父とされているので帰蝶は明智光秀とは従兄妹(いとこ)関係とも考えられますが、光秀の出自に謎が多く本当の続柄は不明です。

 

道三の大ピンチに土岐頼純に嫁ぐ

悪い顔をする斎藤道三

 

通説では、天文10年(1541年)頃、斎藤道三は、美濃守護土岐頼芸(ときよりのり)を追放し、その一族を殺して美濃国主となります。しかし、道三の強引な手法は美濃国人の反発を招いたので、道三は頼芸より下賜された側室、深芳野(みよしの)の子で嫡男の義龍を頼芸の御落胤(ごらくいん)と称して美濃の当主に据えました。

 

織田信秀(おだのぶひで)は信長のお父さん

 

それに対し、天文13年(1544年)斎藤氏の台頭を嫌う尾張の織田信秀(おだのぶひで)は、道三を退治すると称して土岐頼芸を援助して兵5千を派遣、さらに、甥の土岐頼純(ときよりずみ)が越前国の朝倉孝景(あさくらたかかげ)の加勢を受けた兵7千を与えられて美濃に南と西から攻め入りました。

 

斎藤道三と戦をする織田信秀(加納口の戦い)

 

斎藤軍は、まず南方の織田勢と戦いますが、過半数が討ち取られて稲葉山城を焼かれ、さらに西からも朝倉軍が接近したので、道三はそれぞれと和睦して事を収めようとします。織田家との和睦条件は、信秀の嫡男の織田信長に娘を輿入れされるというものでした。

敗北し倒れている兵士達a(モブ)

 

しかし、天文15年(1546年)越前の朝倉孝景とも和睦する事になり、美濃守護を土岐頼芸から土岐頼純に替えた上で、人質として娘を輿入れさせる事になります。土岐氏は守護職なので、道三は家格の問題から正室の娘である帰蝶を土岐頼純に輿入れさせました。かくして、父の窮地を救う為に帰蝶は、12歳で嫁に出される事になります。

 

麒麟がくる

 

土岐頼芸の死で今度は織田信長に嫁ぐ

 

帰蝶を土岐頼純の嫁に出したので、織田家との約束は一度棚上げになります。しかし、天文16年(1547年)8月、織田・朝倉氏は、土岐頼芸と土岐頼純に大桑城に拠って土岐氏を支持する家臣団をまとめて、斎藤道三打倒の為に蜂起せよと促します。

 

道三は、この情報を察知して迅速に兵を集めて大桑城を大軍で押し寄せ、準備が整わない土岐頼芸と土岐頼純は、越前の一乗谷に落ちのびました。同年9月3日、織田信秀は再び、大軍を率いて稲葉山城を焼きますが、道三は偽装退却をして守りを堅め、織田軍が退却を開始すると奇襲を掛けて撃破します。

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

さて、一乗谷に落ち延びた土岐頼純は、美濃国諸旧記によると、天文16年の11月に当然亡くなったとも、大桑城攻めで討ち死にしたとも言われ、少なくとも、この時点で帰蝶は未亡人になり斎藤家に戻って来たと考えられます。

 

天文16年から翌年にかけて、道三と信秀は大垣城を巡って再三争いますが、決着がつかず、信秀が病気がちになっていた事もあり和睦が結ばれます。

 

ここで、以前の帰蝶の織田家輿入れの話が再浮上し、信秀は婚約の履行を再三求めたので、道三も折れ、天文18年(1549年)2月24日、帰蝶は15歳で織田信長と再婚しました。さらっと書きましたけど、15歳で再婚って現代の感覚だとスゴイですね。

 

信長に嫁いでより記録が途絶える帰蝶

織田信長

 

その後、帰蝶の消息は、斎藤家の菩提寺常在寺(ぼだいじじょうざいじ)に、父斎藤道三の肖像(しょうぞう)を寄進したという時期不明の記録を最後に一次史料では辿(たど)る事が出来ません。

 

絵本太閤記(えほんたいこうき)武将感状記(ぶしょうかんじょうき)のような物語では、結婚の1年後に濃姫が熟睡してから信長が毎夜寝床を出て明け方に帰るという不審な行動が1カ月続き、浮気を疑った帰蝶が問い詰めると、信長は「道三の家老の2人と謀反の計画を練っていた」と白状したので、驚いた帰蝶が父の道三に手紙を書いて知らせ、道三は有力な家老2人を処刑、信長の離間計が的中したというような話があります。

 

しかし、これはあくまで物語であり、類似する内容の記録は一次史料にはありません。

【次のページに続きます】

 

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kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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